教寿院如祐尼

安土桃山時代から江戸時代前期の女性、尼僧

教寿院如祐尼(きょうじゅいん にょゆうに、生年不詳 - 寛永10年9月14日[1]/15日[2]1633年10月16日/17日)は、安土桃山時代から江戸時代前期の女性、尼僧。通称はおふく。新川玄要の娘。真宗大谷派東本願寺)第12代法主教如の側室。

出自は分かっておらず、教如の家臣宇野新蔵の日記『宇野新蔵覚書』と、大阪府貝塚市願泉寺第7代住職卜半了観が書いた『手鑑』以外に教寿院を記した史料が無いため、生涯もほとんど不明である。『手鑑』によると願泉寺と姻戚関係を結んだ新川家の一門・佐野川新川家の出身と推定され、願泉寺初代住職卜半斎了珍の妻如西の姪といわれ、教如が貝塚に滞在していた時期に教如の子を出産したという[3]

教如からは正室東之督を差し置いて寵愛されたが、教如の母如春尼と仲が悪く、下間頼龍ら教如の側近たちにもよく思われていなかった。文禄2年(1593年)に教如が豊臣秀吉から大坂城に呼び出され、取り調べを受けた際に教如がおふく(教寿院)を寵愛したことも指摘され、公家の山科言経が日記『言経卿記』に記したように、教如の女性問題は世間の噂になっていたことが推定される[2][4][5]

秀吉の裁定で教如が本願寺法主を退くと、頼龍らの弾劾で別居処分となり、宇野主水(宇野新蔵の父)の付き添いで近江福田寺に一時身を寄せた。その後教如の下へ戻ったらしく、文禄5年(1596年)と翌慶長2年(1597年)に長男尊如と次男観如を産んだが、尊如は生後2日で、観如は慶長16年(1611年)に夭折した[1][2]。慶長19年(1614年)に教如が示寂、側室の妙玄院如空が産んだ宣如の法主継承を阻み、宇野新蔵らと謀り長女の教証院如頓が産んだ外孫熊丸(後の公海)を法主に擁立しようとしたが、法主は宣如が継承し熊丸擁立は頓挫した[1][2]元和2年(1616年)に隠居したが、教如の遺品(本願寺肩衝)を巡り宣如と争った。寛永10年(1633年)に死去[2][6]

子女 編集

脚注 編集

参考文献 編集