文公(ぶんこう、紀元前?年 - 紀元前628年)は、の第10代君主。厲公の子。

文公 姫踕
10公
王朝
在位期間 紀元前672年 - 紀元前628年
都城 新鄭
姓・諱 姫踕
諡号 文公
生年 不詳
没年 紀元前628年
厲公

生涯編集

厲公の子として生まれる。

厲公後7年(前673年)5月、厲公が薨去したため、子の踕(しょう)が立って鄭君(以降は文公と表記)となった。

文公6年(前667年)6月、文公はと幽(宋の地)にて同盟した。

文公7年(前666年)秋、の令尹(上卿にあたる楚の官名)である子元が600乗の戦車部隊を率いて鄭に攻め込んできた。これに対し、斉・宋・魯が救援に来たので、楚軍を追い返すことができた。

文公8年(前665年)夏、鄭は(きょ:国名)に侵攻した。

文公14年(前659年)秋、楚が鄭を攻撃したため、8月に斉・宋・鄭・の諸侯は檉(てい:宋の地)で会合した。

文公15年(前658年)冬、楚が鄭を攻撃し、楚の鬬章によって鄭の聃伯(たんぱく)が捕らえられた。翌年(前657年)冬、楚が鄭を攻撃した。毎年のように楚の攻撃があるので、文公は楚との和平を考えたが、大夫の孔叔に諫められた。

文公17年(前655年)夏、斉・宋・陳・衛・鄭・魯・許・曹の諸侯たちは、首止(衛の地)において太子鄭と会合し、周の政治を安定させるための相談をした。秋、諸侯が首止で盟を結んだが、文公はその場から逃げ出して国へ帰った。そのため翌年(前654年)の夏、斉・宋・陳・衛・曹・魯の諸侯軍は鄭を攻撃して新城を包囲した。秋、これに対し、楚が鄭を救うべく許を包囲したので、諸侯軍は許を救うために鄭の包囲を解いた。

文公19年(前653年)春、斉が鄭を攻撃してきた。この時、大夫の孔叔は文公に降伏するよう勧めたが、文公は申侯を処刑することで許しを請うた。7月、斉の桓公・宋の桓公・魯の僖公・陳の太子款・鄭の太子華らは寧母(魯の地)で盟を結んだ。

文公21年(前651年)夏、文公は周公(宰孔)・斉・宋・衛・魯・許・曹とともに葵丘(宋の地)で会合し、9月に盟を結んだ。

文公24年(前649年)、文公の賤妾である燕姞(えんきつ)との間に蘭(のちの穆公)が生まれた。

文公26年(前647年)夏、文公は斉・宋・陳・衛・魯・許・曹と鹹(かん:衛の地)で会合し、淮夷(わいい)[1]を苦しめることと、王室のことを話し合った。

文公27年(前646年)秋、(てき)[2]が鄭に侵入してきた。

文公31年(前642年)11月、太子華を殺した。

文公36年(前637年)、公子重耳が鄭を訪れたが、文公は礼遇しなかった。この時、弟の叔詹(しゅくせん)が諫めたが、文公は聞き入れなかった。

文公37年(前636年)秋、鄭の従属国だった滑(かつ:国名)が、鄭の命令を聞かなくなり、に附いたため、文公は滑に侵攻した。襄王大夫伯犕を遣わして滑を許してやるように言ってきた。しかし、文公は以前、鄭が周の恵王を助けた時、なんの爵禄ももらえなかったことと、周の襄王が衛と滑に与していることに怨みを抱いて、周の襄王の請いを聞き入れず、使者の伯犕を捕えた。周の襄王はこれに怒り、翟人とともに鄭を攻撃したが、勝てなかった。その冬、周の襄王が翟人に攻撃されて鄭に亡命してきたので、文公は周の襄王を汜(し)に住まわせてやった。翌年(前635年)、晋の文公が周の襄王を成周に戻した。

文公41年(前632年)、鄭はを援けて晋を攻撃した。

文公43年(前630年)、報復として晋の文公と穆公が連合して鄭を包囲した。これより先、文公には3人の夫人がおり、子が5人生まれたが、皆罪によって殺され、いずれも早く世を去った。文公は怒って腹妾の公子たちをことごとく追放した。このとき公子蘭も追放され、晋に亡命した。公子蘭は晋の文公から寵愛され、その後援によって鄭に入り、太子になろうとした。そこでまず晋は鄭に公の弟である叔詹を誅したいと申し出た。文公が叔詹にこの旨を伝えると、叔詹は自殺したので、文公は叔詹の遺体を晋に引き渡した。さらに晋の文公は公子蘭を鄭の太子にすることを申し入れた。鄭の大夫である石癸が「これに承諾すべきです」と言ったので、文公はこれを承諾し、公子蘭を太子に立てた。

文公45年(前628年)、文公が薨去し、太子の蘭が立って鄭君(穆公)となった。

編集

  • 太子華
  • 穆公(蘭)
  • 公子臧
  • 公子士
  • 公子瑕
  • 公子兪弥

脚注編集

  1. ^ 東の異民族。
  2. ^ 北の異民族。

参考資料編集

  • 春秋左氏伝』(荘公二十一年、二十七年~二十九年、僖公元年~三年、五年~七年、九年、十三年、十四年、十六年)
  • 史記』(鄭世家第十二)
先代:
厲公
君主
第10代:前672年 - 前628年
次代:
穆公