斎藤 巍洋(さいとう たかひろ、1903年(明治36年)9月14日[1][2][注 1][注 2] - 1944年(昭和19年)9月5日[1][2][3][4])は、昭和時代戦前の競泳選手。1924年パリオリンピック日本代表。

斎藤 巍洋
国籍 日本の旗 日本
泳法 自由形、背泳ぎ
生年月日 1903年9月14日
生誕地 日本の旗 日本 大阪府
没年月日 (1944-09-05) 1944年9月5日(40歳没)
死没地 フィリピンの旗 フィリピン マニラ
獲得メダル
競泳男子
日本の旗 日本
極東選手権
1923 100ヤード背泳ぎ
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経歴 編集

大阪府に生まれる[5]岸和田中学校を経て、立教大学に入学[2][5]。在学中、背泳ぎと短距離自由形で、何度か日本新記録を更新した[2]。また、1924年パリオリンピックに日本代表として出場し、男子100m背泳ぎで6位に入賞した[1]。ほか、1923年(大正12年)に開催された第6回極東選手権競技大会では100ヤード背泳ぎで優勝した[3]

1927年(昭和2年)大学を卒業して、大阪毎日新聞社に入社[5]。運動部記者を務める傍ら[3]、毎日の浜寺水泳学校の教師も務めた[2]

1934年(昭和9年)12月17日、ブラジルより請われ水泳コーチとして1年の契約期間で遠征し、現地で海軍生徒や関係者に日本独特の泳法を指導した[2]。独特の練習法により海軍の選手達は著しい進境を示し、各新聞は筆を揃えてこれを絶賛した[2]

海軍体育会は、1935年(昭和10年)3月にサンパウロへ遠征し、サンパウロ水泳連盟と競技を行った[2]。大会では海軍体育協会が全種目に選手権を独占して、大勝を博した[2]

帰朝後は、後進の指導に当たり、1940年(昭和15年)には遊佐正憲葉室鐵夫を引き連れブラジルに遠征した[2]

太平洋戦争が勃発すると、1944年(昭和19年)8月17日、陸軍嘱託としてマニラ出向を命ぜられた[2]。マニラ新聞社に籍をおいて軍報道部教育隊の遊泳訓練中に[2]デング熱を原因とした肺炎に罹り[4]、同年9月5日に急逝した[2]

著作 編集

  • 『スポーツ叢書』三省堂、1929年。
  • 『新日本水泳術』三省堂、1934年
  • 『水泳 : 其の本質と方法』欧文社、1942年。
  • 『水泳』旺文社、1946年。

関連項目 編集

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 『講談社日本人名大辞典』814頁では明治35年生。
  2. ^ 『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』サ2頁では明治37年生。

出典 編集

  1. ^ a b c Takahiro Saito”. Olympedia. 2021年3月24日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 斎藤巍洋(さいとう・たかひろ)”. サンパウロ人文科学研究所. 2021年3月24日閲覧。
  3. ^ a b c 上田ほか 2001, 814頁.
  4. ^ a b 曾根 2020, 9-10頁.
  5. ^ a b c 日本スポーツ協会 1933, サ2頁.

参考文献 編集

  • 日本スポーツ協会 編『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』日本スポーツ協会、1933年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1145549 
  • 上田正昭ほか 監修『講談社日本人名大辞典』講談社、2001年。ISBN 4062108496 
  • 曾根幹子「戦没オリンピアン」をめぐる調査と課題 ―広島県出身選手を事例に―」『広島市公文書館紀要』第32号、2020年、1-13頁。 

外部リンク 編集