新島とみ
新島 とみ(にいじま とみ 1807年10月10日〈文化4年9月9日〉 - 1896年〈明治29年〉1月7日)は、武蔵国浦和宿(現:埼玉県さいたま市浦和区)出身の人物。同志社大学創設者、新島襄の母。旧姓田中とみ。新島登美と表記される場合もある。
経歴
編集- 1807年 - 武蔵国足立郡浦和宿仲町の米穀問屋中田六之丞の娘として生まれる[1]。生地はその後浦和警察署→浦和商工会議所→ザ・パークハウス浦和タワーと変遷している。
- 1820年 - 14歳の春、江戸に出て、信濃国中之条陣屋の代官折井平兵衛(荒井平兵衛[2])方にて2年の年季で奉公。
- 1822年 - 医師の雨森泉春(2代雨森宗真[3])方に腰元奉公。
- 1825年 - 安中藩家老の尾崎直記に腰元奉公。尾崎は安中藩士の新島弁治と親しくし、その縁で民治ととみの結婚へと繋がった。
- 1831年(天保2年)4月 - 安中の新島民治と結婚。
- 1843年(天保14年) - 長男・七五三太(後の新島襄)が生まれる。
- 1887年 - 夫、民治が死去。
- 1890年(明治23年) - 息子、襄が死去。
- 1896年(明治29年) - 死去。
関連作品
編集- テレビドラマ
脚注
編集- ^ 関口徹「新島襄の母とみとその生地」『新島研究』第103巻、同志社大学同志社社史資料センター、2012年2月、117-138頁、CRID 1390853649843998848、doi:10.14988/pa.2017.0000013042、ISSN 0287-5020、NAID 110009559011。
- ^ 関口徹「新島襄の母とみと信州中之条代官荒井平兵衛 : その人物の特定と業績、一族と居宅地の解明」『新島研究』第99巻、同志社大学同志社社史資料センター、2008年2月、24-55頁、CRID 1390572174866671360、doi:10.14988/pa.2017.0000011715、ISSN 0287-5020。
- ^ 関口徹「新島襄の母とみと御目見医師雨森宗真 : 越前大野藩医雨森家の究明と「恩人碑」」『新島研究』第100巻、同志社大学同志社社史資料センター、2009年2月、182-202頁、CRID 1390853649843977088、doi:10.14988/pa.2017.0000012971、ISSN 0287-5020、NAID 110009552354。
参考文献
編集- 「埼玉の女たち」韮塚 一三郎 さきたま出版会 1985年