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新田 朝氏(にった ともうじ)は、鎌倉時代中期から後期の鎌倉幕府御家人新田氏宗家の7代当主。史料で確認の出来る通称は六郎太郎(別説あり、後述参照)。

 
新田朝氏
時代 鎌倉時代末期
生誕 文永11年(1274年
死没 文保2年1月2日1318年1月21日
改名 朝氏→朝兼
別名 通称:六郎太郎
(別説として二郎太郎、小太郎)
:氏光、政朝
墓所 群馬県太田市 円福寺
幕府 鎌倉幕府
主君 守邦親王
氏族 河内源氏義国流、新田氏
父母 新田基氏、母:不詳
兄弟 朝氏満氏(義政)、義量(義円)、今井惟義朝谷義秋
義貞脇屋義助大館宗氏

新田基氏の長男で、新田義貞脇屋義助の父。

生涯編集

長楽寺文書』の正和3年(1314年)5月28日付の放券(「新田朝兼在家畠地買券」)に「源朝兼」と記されており、これを認める旨の同年8月23日付の「関東下知状」(同じく『長楽寺文書』所収)には「新田六郎太郎朝兼」の名が記されていて、これらの書状によって新田朝兼(ともかね)の実在が確認できる。

尊卑分脈』前田本の新田氏系図には朝氏の項に「新田六郎太郎」とあり、史料中の朝兼は朝氏が後に改名した同人とされている(『系図纂要』、後述参照)。当時の新田氏宗家は足利氏宗家の強い影響下にあり[1]、「氏」も足利氏の偏諱を受けたものらしい[2]が、改名の理由は不明である。

「新田足利両家系図」[3]に拠ると、正和2年(1313年)頃に、朝氏は新田一族ゆかりである朝谷氏の頭領である朝谷義秋正義兄弟が常陸国南部を拠点に悪党として活躍している評判を聞いた。朝氏は遠い親戚である朝谷兄弟を新田荘に招き、自分の妹と領地を与えて優遇した、と記されている。

これ以外の朝氏の事績については資料が乏しいため、その動向はわからない。

文保2年(1318年)1月2日、朝氏は父より先立って、45歳で病没した(秋に亡くなった、とする説もある。病因は『労咳』と伝わる)。

系図類における朝氏編集

朝氏について、『新田横瀬由良正系図』では新田由良六郎政朝の別名とし、『鑁阿寺系図』では氏光の初名としているが、『系図纂要』では "二郎太郎" 朝氏(のち朝兼)と氏光を別人とし、の「筑後佐田・新田氏系図」[4]では "小太郎" 朝氏と義貞の間に氏光(のち満氏)を挟んでおり、それぞれ異なっている。

また、異本が多く伝わる『尊卑分脈』の大半が通称を「二郎太郎」と注記する中、前田本では「六郎太郎」としており[5]、前述の通り後者が有力である。同じく前田本の系図によれば父・基氏の通称が「六郎」であり[5]、「六郎太郎」という通称名は六郎基氏の太郎(長男)を意味するもので辻褄が合う(他の『尊卑分脈』系図では基氏の通称は太郎[5])。

朝氏の正妻に関する諸説編集

朝氏の正妻に関しても諸説がある。それによると、「筑後佐田・新田氏系図」[4]では一族の堀口入道貞義(父・基氏のいとこ貞満の父)の養女とする。また、毛呂昌憲著『新田義貞正伝』(新田義貞公顕彰会発行)によると、一族の山名伊豆守の娘の妙光とする。さらにの羽田氏里見氏一族)の系図によると、一族の里見判官代刑部義秀の娘で建武2年(1330年乙亥5月4日に61歳で没したと記されている。

脚注編集

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  1. ^ 田中、2013年、p.19(田中大喜「中世前期下野足利氏論」)、湯浅治久『蒙古合戦と鎌倉幕府の滅亡』<動乱の東国史3>(吉川弘文館、2012年)p.234。
  2. ^ 田中、2013年、p.19。年代的に足利貞氏か。嫡男・義貞の場合は貞氏の最初の嫡子であった足利高義から「義」の偏諱を受けたからではないかとする説がある(田中、2013年、p.43)。千々和『新田氏根本資料』所収の「筑後佐田・新田氏系図」によれば義貞の元服は同じく正和3年の3月1日とされる。
  3. ^ 千々和『新田氏根本資料』が引用する書物。
  4. ^ a b 千々和『新田氏根本資料』所収。
  5. ^ a b c 『尊卑分脈』〈国史大系本〉第三篇 P.246。

参考文献編集

関連項目・外部リンク編集