新納忠清
新納 忠清(にいろ ただきよ)は、江戸時代前期の武将。薩摩藩士。
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 文禄4年3月9日(1595年4月18日) |
死没 | 承応3年4月17日(1654年6月2日) |
別名 | 通称:次郎四郎 |
戒名 | 春屋宗天居士 |
官位 | 刑部大輔、加賀守 |
主君 | 島津家久→光久 |
藩 | 薩摩藩 |
氏族 | 新納氏 |
父母 |
父:新納忠増、母:猿渡信孝娘 養父:新納忠光 |
兄弟 | 島津久元正室、上井兼道室、忠清、久連 |
妻 | 新納忠光娘 |
子 | 忠秀 |
略歴
編集父・忠増の兄・忠堯が天正11年(1583年)に30歳で討ち死にし、その嫡子・忠光も慶長8年(1603年)に早世したため、忠光の娘婿としてその家督を継いだ。
寛永の始め頃に高奉行並びに、本城[1]の地頭に任じられた。また寛永5年(1628年)には、祖父・新納忠元も地頭を務めていた大口[2]地頭に任じられ、27年間務め上げる。寛永14年(1637年)の島原の乱には大口勢を率いて出陣、2月28日の決戦の際は原城内に乗り込み軍功を上げた。
脚注
編集出典
編集- 『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会)