日東十客(にっとうじっきゃく)とは、1884年明治17年)8月24日横浜港からヨーロッパに向けて出発した10人の留学生を、森林太郎 (森鷗外)によって名づけられたもの。森林太郎、片山国嘉丹波敬三長與稱吉田中正平宮崎道三郎隈川宗雄萩原三圭穂積八束飯盛挺造の10人を指す。

概説 編集

1884年(明治17年)8月24日横浜からフランスの客船[注 1]で10人の留学生がヨーロッパに向けて出発した。メンバーは森林太郎 (森鷗外)、片山国嘉丹波敬三長與稱吉田中正平宮崎道三郎隈川宗雄萩原三圭穂積八束飯盛挺造であった。それぞれの留学目的、留学先は異なっていたが、マルセイユまでは一緒であった。

森鴎外は航海中のことを「航西日記」に書き留めている。この中で自分を含め10人のメンバーを「日東十客」と名づけ、「日東十客歌」を作った。これを見ると飯盛はかなりの酒豪であったことがうかがえる[2]。事実、留学先でドイツの学生と飲み比べをして勝った、という話が残っている[3]

日東十客歌 編集

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竭江河は「河をのみほす」と読む。5行目「法國語」はフランス語のこと。丹波の行は「丹波何ゾ曾テノ豪気ナキヤ、風濤ニ遭フ毎ニ消磨セリ」と読む。7行目「老萩」とあるのは、萩原三圭が最年長の44歳であったから。萩原は二回目の留学であった。この行は萩原がドイツリートを朗々と歌い上げている様子を表している[1]

幻の写真 編集

「航西日記」によると一行は出発後45日目の10月7日にマルセイユに到着し、翌8日に市内の写真館[注 3]で記念写真を撮ったとされている。しかし、この写真はその後長らく所在が不明であった。撮影から110年後の1994年(平成6年)に一行の一人である宮崎道三郎 (法学者) の孫・宮崎誠が所蔵の写真に森鴎外が写っていることに気づき、東京・千駄木の鴎外記念本郷図書館 (現・文京区立森鴎外記念館) に送ったことから所在が明らかになった[5]

鴎外はこの写真について「二十八日。午。着馬塞(マルセイユ)。投日熀垘客館 (Hôtel de Genève)[注 4]壁頭懸大寫眞幅。就而見之。則航西日記所載日東十客之圖也。余等堂々七尺軀。徒使髭奴爲奇禽異獣之顴。悲慨何堪。」と日記で記述している[6]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 香港までは緜楂勒 (メンザレー) 号、香港から先は揚子號 (ヤンツー号) [1]
  2. ^ この文字を拡大すると 音:ク、訓:やせる
  3. ^ ノアイユ広場 (Place Noailles) 14番地、設理路速 (シュリ・ルソー : Cheri-Rousseuau) 写真館[4]
  4. ^ このホテルは現存している。現在の名はGran Hôtel de Genève[4]

出典 編集

  1. ^ a b 中井義幸、『日東十客』の写真、鴎外 特集「森鴎外記念会三十年史」森鴎外記念会 No.57 pp.132 - 153 (1995)
  2. ^ a b 森林太郎「航西日記」鴎外全集 第35巻 pp.75 - 83 岩波書店 (1975)
  3. ^ 岩田重雄「微量天びんの先駆者、飯盛挺造」日本計量史学会誌 Vol.2, No.1, pp.25 - 36 (1980)
  4. ^ a b 武田勝彦『巴里の鴎外』、鴎外 特集「森鴎外記念会三十年史」森鴎外記念会 No.57 pp.161 - 163 (1995)
  5. ^ 朝日新聞 1994年平成6年)6月29日号「幻の写真」
  6. ^ 森林太郎「還東日乗」鴎外全集 第35巻 p.223 岩波書店 (1975)