明徳皇后(めいとくこうごう)は、北宋太宗の3番目の妻であり、皇后。姓は李氏

李皇后
北宋の皇后
在位 雍熙元年12月17日[1] - 至道3年4月1日
985年1月10日 - 997年5月10日

別称 明徳皇后
万安皇太后
出生 建隆元年(960年
潞州上党県
死去 景徳元年3月15日[2]
1004年4月7日
開封府、万安宮
埋葬 永熙陵
配偶者 太宗
父親 李処耘
母親 韓国太夫人陳氏
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生涯 編集

潞州上党県の人。淄州刺史李処耘と陳氏の次女として生まれた。開宝年間、符氏と死別した晋王(後の太宗)に嫁いで王妃となった。

太平興国3年(978年)7月に入宮し、雍熙元年12月(985年1月)には皇后に冊立された。端正であり礼儀正しく、仁厚な性格だった。太宗との間に息子1人を儲けたが、早世した。

至道2年(996年)、李氏の嫡母の呉氏が衛国太夫人に、生母の陳氏が韓国太夫人に封じられている。太宗が崩じた後は皇太后となり、西宮の嘉慶殿へ移った。咸平4年(1001年)、李氏のための万安宮が建てられ、ここに住みながら万安皇太后と呼ばれた。

景徳元年(1004年)3月、万安宮にて崩御。「明徳」とされ、太宗の永熙陵に合葬された。

脚注 編集

  1. ^ 『宋史』巻4, 太宗紀一 雍熙元年十二月壬辰条による。
  2. ^ 『宋史』巻7, 真宗紀二 景徳元年三月己亥条による。

伝記資料 編集

  • 宋史』巻242 后妃伝上 明徳李皇后伝
  • 『宋会要輯稿』巻12 后妃一 明德李皇后