景駒

秦末の叛乱指導者のひとり

景 駒(けい く、? - 紀元前208年)は、末の人物である。公族出身で、姓は、氏は、諱は

『史記集解』では、景駒は「の貴族であった景氏の出身」とする[1][2][3]

彼は楚の平王の庶長子である子西中国語版(公子申、景申)の後裔にあたる(景氏屈氏・昭氏と共に楚の公族系でも最高の名門の1つであった(これを三閭中国語版と呼ばれる))[4][5]

概要編集

紀元前223年に故国であった楚がに滅ぼされる。

二世2年(紀元前208年)12月、秦に反乱を起こした陳勝が敗走し、部下の荘賈に裏切られ殺される。

同年端月(1月)、秦に反乱を起こしており、陳勝が敗走したと聞いた 秦嘉と甯君らによって、留で楚の仮王[6]として擁立される[7]。しかし、斉王を名乗っていた田儋からは、田儋に要請せずに勝手に王を名乗ったことが責められた。また、張良は景駒に従おうとして留に赴いたが、道中で劉邦と出会い、劉邦に従うことに決めたため、張良は景駒と会見しようとすることはなかった[8]。一方、劉邦は景駒が楚の仮王を名乗ったことを知り、郷里である豊邑を占領して周巿と通じた雍歯を討つために、留に赴いて従うことにした。この時、秦軍を率いる章邯は陳にいて、配下の司馬𡰥[9]を北上させて楚の地を攻めさせて、相を屠り、碭まで攻めて来ていた。劉邦は甯君とともに、西に向かい、蕭の西[10]で戦ったが形勢は不利であった。

同年2月、公孫慶を使者として斉に送るが田儋に殺される。劉邦と甯君は撤退して兵を収めて留に集まり、碭を攻めて、3日で攻め落とした。劉邦は6千の兵を収めて,元からいた兵とあわせて9千人の兵力となった。

同年3月、劉邦は下邑を攻め落とし、豊を攻めるが落とせなかった。劉邦は会稽から北上してきた楚の将軍家出身である項梁の兵力が盛んと聞き、項梁のもとに赴き、(援軍要請を行い)豊を攻撃することを項梁に求めた。

同年4月、秦嘉が彭城において、項梁の軍[11]と戦い大敗する。秦嘉は胡陵で再び項梁と戦ったが戦死した。景駒は逃亡したが、の地に逃れて没した[12]

なお、前漢の時代では、景駒は郢において挙兵したと見なした見解もある[13]

参考文献編集

脚注編集

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  1. ^ 『史記』項羽本紀
  2. ^ 『史記索隠』の引用する韋昭によると、景氏は、昭氏・屈氏ともに楚の三大姓である。
  3. ^ 佐竹靖彦は『楚の貴族の筆頭グループに入る景氏の景駒』としている。佐竹靖彦『劉邦』255頁
  4. ^ 以下、特に注釈がない部分は、『史記』秦楚之際月表第四・項羽本紀・高祖本紀による。
  5. ^ 年号は『史記』秦楚之際月表第四による。西暦でも表しているが、この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。まだ、秦代では正月を端月とする。
  6. ^ 『史記』高祖本紀・留侯世家では仮王、項羽本紀・陳渉世家・秦楚之際月表第四では王としている。
  7. ^ 『史記』秦陳渉世家
  8. ^ 『史記』留侯世家
  9. ^ 『史記集解』によると、元は陳勝に従っていた将であるが章邯に降伏した。
  10. ^ 『史記』高祖本紀による。『史記』秦楚之際月表第四では碭の西とする
  11. ^ 項梁の軍には英布も参加している。『史記』黥布列伝
  12. ^ 『史記』秦楚之際月表第四では4月に『(項)梁撃殺景駒、秦嘉』としており、景駒も間もなく死去したものと考えられる。
  13. ^ 『史記』平津侯主父列伝

関連項目編集

先代:
-
西楚
初代
次代:
義帝