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胡亥(こがい、拼音:Húhài)は、秦朝の第2代皇帝。帝号は二世皇帝。現代中国語では秦二世とも称される。(えい)。始皇帝の末子[1][2][3]

二世皇帝 嬴胡亥
第2代皇帝
王朝
在位期間 前210年8月 - 前207年8月
都城 咸陽
姓・諱 嬴胡亥
諡号 二世皇帝
生年 前230年?、前221年?
没年 前207年8月
始皇帝
陵墓 秦二世陵

生涯編集

二世皇帝に即位編集

始皇帝の末子であり、始皇帝から寵愛を受けていた。

胡亥の年齢は、『史記』始皇本紀では、二世元年(紀元前209年)の皇帝即位の年に21歳であり、紀元前230年生とするが、『史記』始皇本紀に附された『秦記』では同年12歳であり、紀元前221年生としている。

鶴間和幸は「『史記』のなかで、胡亥自身が趙高に向かって「朕は年少で(略)」とこぼす場面があり、趙高も胡亥に「いま陛下は春秋に富んでいる」といい(略)。古代では十代やそれ以下の年齢で皇帝に即位したときには、臣下は皇帝に向かって年少というのをはばかり、「春秋に富む」という婉曲的な表現を用いた。前漢では(略)少年皇帝に使用された表現で、21歳の青年皇帝にいうものではなかった」とみなし、胡亥が12歳(紀元前221年)で即位したことを前提にして論じている[4]

始皇帝には二十数人男子がいたとされる[5]が、また、姚氏は隠士が遺した章邯の書物にある「李斯は17人の兄を廃して、(胡亥)を二世皇帝として、今の王として擁立した」とする記録から、始皇帝の18番目の男子であると推測している[6]

始皇37年(紀元前210年)10月、父の始皇帝が5回目の巡幸に出た際、左丞相李斯は始皇帝がお供となり、右丞相の馮去疾が留守を任された時、胡亥は巡幸のお供となることを願い、始皇帝に許され、巡幸に同行することになった。

巡幸中に始皇帝は発病し、ますます病は重くなった。そこで、胡亥の長兄にあたる公子扶蘇へ、皇帝の印を捺した「(始皇帝の)喪を(秦の都である)咸陽で迎えて、葬儀を行え」という内容の文書を作り、与えることにした。皇帝の印が捺された文書は封印がされ、中車府の令(長官)であり、符璽(皇帝の印)を扱う事務を行う趙高のところにあり、まだ、使者には授けられていなかった。

同年7月、始皇帝は巡幸中に、沙丘の平台宮で崩御した。

左丞相の李斯は、始皇帝が都の外で崩御し、諸々の公子や天下の者が変事を起こすことを恐れて、このことを秘密にし、喪を発表しなかった。始皇帝の死は、胡亥と趙高、信任されていた宦者[7]5,6人が知るのみであった。胡亥はかつて、趙高から書や獄律・令法を教わったことがあり、ひそかに信任していた。

胡亥は趙高から、「上(始皇帝)が崩御し、諸々の公子を王に封じるという詔はなく、長子(扶蘇)に賜う文書があるだけです。長子が戻られれば、皇帝に即位されるでしょう。しかし、その他の公子にはわずかな土地も与えられません。どうなさいますか?」と問われた。胡亥は答えた。「当然のことである。私は、『知恵が明るい君は己の臣を知り、知恵が明るい父は子を知る』という言葉を知っている。父が諸々の公子をに封じないという命令をお出しになったのであるから、何か口を挟むことがあろうか!」。そこで、趙高は、「そうではありません。今、天下の権力の存亡については、あなたとこの趙高、そして、丞相の李斯にかかっています。あなたには熟考していただきたいと思います。人を臣下とすることと人の臣下になること、人を制すことと人に制されること、同じように語れましょうか」と語った。胡亥は、「兄を廃して、弟が(帝位に)立つ。これは不義である。父の詔を奉ぜずに、死を畏れる。これは不孝である。能力と才能が足らないのに、強いて他人の働きに頼る。これは不能である。三者は徳に逆らう。天下は服さず、身は危うくなり、社稷は続かないであろう」と反論する。趙高は重ねて語った。「湯王文王が主(桀王・殷の紂王)を殺害し、天下の人々は殷の湯王や周の文王の義を称えました。大事をなす時は、小さい事にはこだわらないものです。小さな事を顧みて、大きな事を忘れてしまうと、後に必ず害があるのです。疑ってためらっていれば、必ず後悔することになります。決断して実行すれば、鬼神も避けていき、成功するでしょう。どうか、このこと(始皇帝の詔の内容を偽り、扶蘇を廃して、胡亥が太子として立つこと)を成し遂げていただきますように!」。胡亥は嘆息して言った。「今、天子(始皇帝)の崩御は発表されておらず、の礼はまだ終わっていない。どうして、このことを丞相(李斯)に求めることができようか」。趙高は「時です。時なのです。図っている猶予はありません。時機に遅れをとることを恐れるだけです」と答える[5]

ついに、胡亥は「始皇帝の詔の内容を偽り、扶蘇を廃して胡亥が太子として立つ」という趙高の謀略に同意した[5]

この後、趙高は、李斯を説得した。扶蘇が即位すれば、扶蘇に親しい将軍蒙恬が丞相となり、李斯や李斯の一族の立場も危ういと吹き込まれた李斯もこの謀略に同意し、仲間に加わることとなった。胡亥は、趙高から「私が太子(すでに胡亥をそのように称している)のご命令を奉じて、丞相にお伝えしてきました。丞相の李斯がご命令を奉じないことがありましょうか」という報告を受けた[5]

藤田勝久はこのことから、胡亥の母について、「よくわからないが、少なくとも扶蘇とはちがう母の生まれで、のバックアップを受けたことは間違いない。なぜなら趙高は、戦国趙の一族でもあったし、始皇帝が亡くなった沙丘の平台は、戦国趙の離宮だったからである。そこで沙丘の陰謀には、かつての趙の勢力が控えており、そのため李斯はどうすることもできなかったのであろう」と論じている[8]

そこで、三人はともに謀議して、始皇帝の詔を偽り、胡亥は、丞相の李斯によって太子として立てられた。さらに、(始皇帝の詔と偽り)、使者を送って、長子の扶蘇と蒙恬のもとに、扶蘇と蒙恬の数々の罪状を書かれた書状を賜い、二人に死を賜った。扶蘇はすぐに自殺したが、蒙恬は疑って再度、勅命を願った。使者は、蒙恬を官吏に捕らえさせた。

胡亥はすでに扶蘇が自殺したと聞いて、蒙恬を許すことを望んだ。趙高は、蒙恬の弟である蒙毅が法で裁き、死罪にしようとしていたことを恨んでいた。また、蒙氏(蒙恬・蒙毅)が胡亥に用いられて、自分に恨んでいることを恐れていた。そこで、趙高は胡亥に進言した。「先帝(始皇帝)は、長い間、すぐれた人物を挙げて太子(胡亥)を立てようと望まれていました。しかし、蒙毅が反対していたのです。これは不忠にして、主君を惑わすものです。誅殺するに越したことはありません」。胡亥はこれを聞いて、蒙恬は陽周に、蒙毅を代に獄につないだ[9]

胡亥が咸陽に着くと、始皇帝の死を発表し、太子である胡亥は即位し、二世皇帝となった。

治世編集

同年9月、始皇帝を驪山に葬った。胡亥は、「先帝(始皇帝)の後宮にいるもので子をなしていない者を、宮廷から出すのはよろしくない」と言って、全て始皇帝に殉死させ、死者はとても多かった。また、始皇帝の棺をすでに埋めた後で、「工匠たちは(始皇帝の墓の)機械をつくったので、全員が埋蔵されたものを知っています。埋蔵されたものは貴重であり、埋蔵したものが外に漏れたら、大ごとになります」という進言を受けて、墓の中門と外門を閉めて、埋蔵に従事した工匠たちを全て閉じ込めて、二度と出られないようにした。さらに、墓の上に草や木を植え、山のように見せかけた。

胡亥は趙高を側近として信任した。趙高は、蒙恬兄弟を中傷して、その罪過を探し、弾劾した。胡亥の兄[10]である子嬰は、蒙恬兄弟をいたずらに処罰することを諫めたが、胡亥は聞き入れなかった。

また、時期は不明であるが、この頃、胡亥はくつろいでいる時に、趙高を召して、相談を行った。「そもそも人が生まれてこの世にいるのは、駿馬6頭を引く馬車を壁のわずかな割れ目から見るようなものである。私にすでに天下に君臨している。耳目に心地よいものや心から楽しいと思うものを全て極めつくした上で、宗廟を安んじて、天下万人を楽にして、長く天下を保ち、天寿を終えたいと望んでいる。このようなことは、可能であろうか?」。趙高が、「(胡亥の)兄にあたる諸々の公子や始皇帝の時代から仕えた大臣が胡亥の即位に疑いを持ち心服しておらず、また、蒙恬の弟である蒙毅が咸陽の外において兵を率いているため、そのような楽しみは得ることはできないでしょう」と答える。胡亥は、「どうすればいいのか」と尋ねると、趙高は、「法を厳しく、刑罰を過酷にして、一族を連座させ、大臣を滅ぼし、(胡亥の)親族を遠ざけて、陛下(胡亥)が新しく取り立てたものをお側に置けば、枕を高くして楽しみを得らえるでしょう」と答えた。胡亥は同意して、法律を改めて、群臣や公子に罪あるものがいれば、趙高に引き渡して、糾問させた[5]

胡亥は、御史の曲宮を遣わして、代にいかせて、蒙毅に命令させた。「先主(始皇帝)は、(胡亥を)太子に立てようとしたのに、卿は反対した。丞相(李斯)は、卿が不忠であるとみなしている。罪は、宗族に及ぶほどであるが、朕(胡亥)は忍びないので、卿に死を賜う(自殺すれば、罪は宗族に及ばないという意味)。なんと幸運なことか! 卿はよく考えるように!」。蒙毅は、「(胡亥を)太子になされることに反対したことはありません。真相を明らかにした上で、死ぬ機会を与えてください」と答えた。しかし、曲宮は、胡亥の意図が蒙毅に死を与えることにあることを知っていたので、蒙毅の言葉に耳を傾けず、殺してしまった。

続いて、胡亥はまた使者を陽周に遣わして、蒙恬に命令させた。「君の過ちは多い。さらに、卿の弟である蒙毅は大罪があり、法の執行は内史(蒙恬)にまで及ぶものだ」。蒙恬は、「忠義を守ったのは、先祖の教えにそむかず、先主(始皇帝)のご恩を忘れていないからです。忠臣を害してはいけません。罪を免れようとしているのではありません。諫めた上で死にたいと願っています。陛下(胡亥)、万民のために道理に従うことをお考えいただくようにお願いします」と答えた。使者は、「私は詔を受けて、法を将軍に執行しようとしているだけです。将軍の言葉を上(胡亥)にお伝えすることはできません」と答えた。蒙恬は毒薬を飲んで自決した。

二世元年(紀元前209年)10月、罪人を大赦する。

この頃、胡亥は趙高を郎中令に任じて、政務を預けた。胡亥は、詔を下して、始皇帝を祀った廟に供える生贄や山川諸々を祀る礼物を増して、群臣に命じて、始皇帝の廟をより尊重させるにさせた。

同年11月、兎園(狩猟用の兎を養育するための園)をつくる。

胡亥は、趙高に図った。「朕(皇帝の自称)は年少で、初めて即位したばかりで、民衆はまだ心服していない。先帝(始皇帝)は郡県を巡行されて、強さを示し、海内を威服なされた。今、安穏として巡行しなければ、弱さを見せることになり、天下の民を臣としたままにはできないだろう」。

12月、阿房宮の造営を行う[11]

同年春、胡亥は李斯と馮去疾・御史大夫の徳(姓は不明)を同行させて、東の方の郡県を巡行した。碣石に着き、そこから海岸をつたって、南の会稽にまで着いた。始皇帝が立て(始皇帝自身の功徳を顕彰し、その内容を)刻んだ始皇七刻石全てにさらに文字を刻んで追記して、その傍らに大臣と従者の名も刻んで、始皇帝の成功と盛んな徳を顕わした。巡行は、遼東まで至って戻っていった。

胡亥は趙高を重く用いて法令を作成させていた。それから、ひそかに趙高に図った[12]。「大臣は(私に)服しておらず、官吏は、なお強い。諸々の公子に及んでは、必ず私と争う気でいる。どうすればよいのか?」。趙高からは、「私は賤しい出身で、陛下(胡亥)に取り立てられても、大臣は私に心服していません。群臣に相談せずに大いに武力を振るってください」という返答があった。胡亥は「よし」と同意をして、大臣や諸々の公子の誅殺を行い、罪過をもって近侍の臣を次々と逮捕し、罪から逃れられるものは無く、6人の公子が杜(地名)において処刑された。公子の将閭の三兄弟は、無実の罪であることを訴えて、剣を抜いて自殺した。宗室は震撼し、群臣の諫めるものは朝廷を誹謗するものとされたため、高官は地位を保って朝廷に容れられることを求め、民衆は震え恐れた。

また、大臣である蒙毅や公子12人が咸陽の市場で処刑され、公主10人が杜(地名)において車裂の上、市場でさらしものとされ、財産は朝廷に没収された上で、連座するものは数えきれないほどであった[5]

公子の高は、逃亡しようとしたが、一族が連座するのを恐れて、朝廷に上書した。「先帝(始皇帝)に当然、殉死すべきでありましたのに、それができずに、(私は)人の子として不孝、人の臣としては不忠です。私に殉死をお許しいただき、酈山の麓に葬ることを願います」。胡亥は、この上書を読み、とても喜んで趙高に示して言った。「これでも私に危急が迫っているといえようか?」。趙高は、「これで謀反の心配はありません」と答えた。胡亥は公子高の上書に許可を与えて、銭10万を与えて、(公子高を)埋葬させた[5]

同年4月、胡亥は咸陽に帰ってから言った。「先帝(始皇帝)は咸陽の朝廷を小さいとみなされ、阿房宮の工事を行い、室堂を作ろうとされたが、まだ完成しないうちに、たまたま崩御された。そこで工事を中止して、驪山を復土(始皇帝の墓とすること)とした。驪山の工事もほぼ終わった。今、阿房宮が完成しないままに放置したら、先帝の行った事が間違いだったとあらわすようなものである」。また、阿房宮の工事を行い、四方の(秦から見た)夷(異民族)を撫順することは、始皇帝の計画のとおりとした。材士(弓兵)5万人を全て徴兵して、咸陽に駐屯して守備させて、射術を学ばせた。犬(射術の的にするため?)や馬などの禽獣を飼育するため、物資が足りなくなることを考慮して、命令を郡県に下して、輸送には自分で食料を持つことにして、豆や穀物、まぐさを徴発して咸陽に運ばせた。咸陽の周囲、300里は収穫した穀物を食べることができなくなった。このように、法令を用いることの厳しさは、ますます深刻となっていった。

また、法令や誅罰は日々、厳しさを増していき、群臣は危険をおぼえ、謀反を考えるものが多かった。直道や馳道の工事や租税の取り立てがますます重くなり、兵役や労役は止むことがなかった[5]

同年7月、秦への大規模な反乱である陳勝・呉広の乱が起こる。反乱を起こした陳勝たちは陳を制圧する。陳勝は国号を張楚とし、王を名乗った。山東の郡県では秦に苦しめられてきた民衆が、秦の官吏たちを殺して、陳勝に応じた。陳勝は各地に呉広武臣張耳陳余・鄧宗・葛嬰らを派遣し、秦を討伐することを名目として、秦の土地を攻略させ、反乱に参加した人数は数えきれないほどであった。東から(反乱を伝える)使者として来た謁者(秦の官名)が、胡亥に反乱のことを伝えたが、胡亥は怒って、謁者を獄吏に下した。

胡亥は、諸々の学者や博士を召して問うた。「楚の守備兵(陳勝・呉広たち)が蘄を攻略し、陳に侵入したようだ。君たちはどう見るか」。博士たちが「これは、反乱ですので、すぐに軍を出して、討伐してください」と答えると、学者の一人である叔孫通は「ただの盗賊や泥棒ですので、郡の守尉がすぐに捕らえるでしょう。心配に及びません」と回答した。胡亥は叔孫通の言葉に同意した。胡亥は、全ての学者に尋ねて、反乱と捉えるか、盗賊と捉えるかを答えさせた。胡亥は、御史に反乱であると答えた学者を取り調べて、「言うべきではないことを言った」理由により、獄吏に引き渡した。胡亥は、叔孫通に絹20匹と衣一組を賜い、博士に昇進させた。官舎に帰った叔孫通は、「危うく虎口を脱しそこねるところだった」と話して、すぐに逃亡した[13]

胡亥は後から来た使者に(反乱のことを)尋ねると、使者は「ただの群盗です。郡守や尉が追って捕らえています。今にも全て捕らえるでしょう。心配するほどのことではありません」と答えた。胡亥は喜んだ。しかし、反乱は拡大する一方であった。

同年8月、呉広は、李斯の長子である李由三川郡守として守っている滎陽を攻撃する。また、陳勝は、周文を将軍に任命して秦を攻撃させた。周文は兵を集めて、進軍し、咸陽を守る難関である函谷関を突破した。

秦末の大乱編集

同年9月[14]、陳勝の配下である周文の軍が戯において陣を布いた。兵は数十万いた。胡亥はとても驚いて、群臣に「どうすればいいのか?」とはかった。少府の章邯が進言した。「盗賊はすでに接近しており、今、近くの県から兵を徴発しても、間に合いません。驪山には多くの囚人がいます。どうか、彼らの罪を許して、武器を与えて盗賊を攻撃させてください」。胡亥は、天下に大赦を行い、章邯を将に任じて、周文を攻撃させた。章邯は周文を打ち破り、周文は敗走した。

二世二年(紀元前208年)11月、章邯は重ねて周文を攻撃し、周文は死亡する。

胡亥は増援として、長史の司馬欣董翳を章邯の補佐として派遣して、陳勝の軍勢を攻撃させる[15]

章邯は、陳勝配下の田臧と李帰を打ち破り、李由の守る滎陽を包囲から解放する。さらに、章邯は陳にて、陳勝を打ち破った[16]

この頃、秦の朝廷では、三川郡守でありながら、群盗(周文?)が通過するのを止めることができなかった李由に対する糾問の使者が咸陽から相次いで発せられていた。また、李由の父である李斯も三公でありながら、盗賊に大きな勢力を伸ばさせたことを責められていた。

李斯はしばしば折を見て、胡亥を諫めようとしていたが、胡亥は李斯が諫めることを許さず、逆に責めあげて問うた。「私には私の考えがある。韓非子も『(聖人であり、天子となった)堯が天下を有した時、宮殿は旅人が泊まる宿より質素であり、衣は鹿の皮の衣や葛でできたもの、食事の内容も門番にも劣るもので、土器で食事をした。(同じく聖人であり、天子となった)禹もまたは治水のため、捕虜の労役よりも激しい労働を行い、家の外で死に、会稽山で葬られた』と言っている。それならば、天下を保つものが尊ぶべきは、体を苦しめ心を労し、衣食住を質素にして、捕虜と同様の労役をすることなのか。これは、愚か者が務めることで、賢人が務めることではない。賢人が天下を保てるのは、天下を治めて、己の望みにかなうようにしたからであり、だからこそ、天下を保つものは貴いのである。賢人は必ず天下を安んじ万民を治めることができるのに、わが身を利すことさえできずに、天下を治めることができようか。だから、私は心のままに望みを広げて、長く天下を統治して、災いが無いことを願っている。このことをなすのは、どうすればいいのか」[5]

李斯は恐れおののき、己と息子(李由)の立場が悪くなっていることもあって、地位の保全のために、胡亥におもねって上書して答えた。「賢君とは、督責の術(臣下を監督し、刑罰によって臣下を責める術策)を行うものです。王のみが天下を制して、制されることがなくなり、楽しみを極めることができるのです。尭や禹は間違っています。賢君が、独断専行して行い、督責の術に通じ、厳しい刑罰を確実なものにすれば、天下の人々は罪を犯しません。仁義の人、諫言を行う臣、節に死ぬ烈士を遠ざけてください。賢君は嫌う臣下を廃し、好きな臣下を取り立てるものです。督責の術が確実なものになれば、国家は富み、君主の快楽はさらに豊かなものになります。得られないものなどありません。群臣や民は過ちを犯すまいとして暇をなく、謀反など起こすことはありません。これによって、帝道は備わって、臣下を統御する術は完全なものとなるのです」。胡亥は、この上書を読んで喜んだ[5]

胡亥は臣下を監督し、刑罰を行うことがますます厳しくなり、民から重い税を取り立てるものが優秀な役人とされた。また、刑に処されたものが、道行く人の半ばにまで達し、処刑されたものは日々、市に積み上げられた。死罪に処することが多いものが、忠臣とされた。胡亥は言った。「このようであってこそ、よく督責していると言えるのだ」[5]

同年12月、敗走した陳勝は部下に裏切られ、城父にて殺された。

同年端月(1月)、章邯は魏咎が都としていた臨済を攻める[17]

同年6月、章邯は魏の救援に来た王の田儋を戦死させる。魏咎は自殺して、臨済は落城した[18]

丞相・李斯の刑死編集

この頃[19]、胡亥は、趙高から「陛下(胡亥)は若くして(春秋に富み)、皇帝に即位されたばかりであるため、(陛下に)過ちがあれば、群臣たちに短所を示すことになります。天子が『朕』と称するのは、「きざし」という意味ですから、群臣に声も聞かせないことです」という進言を受ける。胡亥は、常に禁中にいて、趙高と諸事を決することにする。これから後、公卿たちは朝廷にて胡亥に会うことができることが稀となった。

趙高は李斯が(胡亥が禁中に入って、朝廷に顔を見せず、趙高とのみ諸事を決したことに対して)不満をもらしていると聞き、李斯に胡亥と会って諫めるように勧める。李斯が同意すると、趙高は胡亥への拝謁の場を設けることを約束した。趙高は、胡亥が酒宴を行い、婦人といる時に、人を遣わして、「上(胡亥)が暇な時です。上奏してください」と李斯に伝えさせた。李斯が宮廷の門に来て、胡亥との拝謁を願った。このような事が三度、繰り返させると、胡亥は怒って言った。「私はいつも暇な日が多いのに、丞相(李斯)はその時に来ない。私がくつろいでいる時に、丞相はやってきて奏上してくる。丞相は私を若いと思っているのか? それとも、軽く見ているのか?」。趙高は答えた。「用心してください。李斯は王になろうと望んでいるのです。李斯と(李斯の息子の)三川郡守の李由は、(李斯の故郷に近くに住む)陳勝たちと通謀しています[20]。李斯は宮廷の外にいて、その権力は陛下(胡亥)より大きいのです」。胡亥は同意して、李斯を取り調べようと望んだが、罪状がはっきりしないことを恐れ、人を派遣して、李由と盗賊が通謀している罪状について調査させた。李斯もまた、このことを聞き知った[5]

胡亥が甘泉の離宮にいて、技比べや芝居曲芸を観て楽しんでいた時、謁見できなかった李斯は、趙高の非を上書した。「趙高は陛下(胡亥)と権力を操ることは異なりません。趙高には野望と謀反の志があります。私は、趙高が変事を起こすことを恐れています」。胡亥は答えた。「どうしたのか? 趙高は元々、宦人[21]であったが、安心できる時も好き勝手に振る舞わないし、危険な時も心を変えたりしない。行いを正しくして、善につとめて、今に至ったのだ。忠義によって昇進し、信義によって今の地位にいるのだ。朕(胡亥)は、趙高をすぐれた人物と思っている。それなのに、君は趙高を疑っている。どうしてなのか? 朕は若くして、先人(父である始皇帝)を失い、識見もなく、民を統治することに慣れていない。それなのに、君もまた老いている。朕が(秦の)天下を絶やすことを恐れている。趙君(趙高)に政治を預けなければ、誰に任せればいいのか? それに、趙高の人柄は清廉で忍耐力があり、下々の人情に通じ、朕の意図にかなっている。君は彼を疑ってはいけない」。李斯は言った。「そうではありません。趙高は元々、賤しい出身であり、道理を知らず、欲望は飽くことは無く、利益を求めて止みません。その勢いは主君(胡亥)に次ぎ、その欲望はどこまでも求めていくでしょう。ですから、私が危険であると見なしているのです」[5]

胡亥は、元々から趙高を信頼しており、李斯が趙高を殺すことを恐れた。そこで、ひそかに趙高にこのことを告げた。趙高は、「丞相(李斯)が心配としているのは、この趙高だけです。私が死ねば、丞相は秦を乗っ取るでしょう」と言った。胡亥は、「李斯を郎中令(趙高)に引き渡せ」と命じた。趙高は李斯の取り調べにとりかかった[5]

同年7月、田儋の従弟である田栄が守る東阿を攻めていた章邯の軍が項梁の軍によって打ち破られる[22]

同年8月、三川郡守である李由が雍丘を攻めて、項梁の配下である項羽劉邦の軍と戦い、戦死する[22]

同年9月、胡亥は[23]、秦全軍を出して、章邯の兵を増援した。章邯は定陶において、項梁を打ち破り、戦死させた[22]

この頃[24]、反乱軍は増大していく一方で、関中にいる兵士を動員して、東方の群盗を攻撃することは止むことはなかった。そこで、右丞相の馮去疾・左丞相の李斯・将軍の馮劫は胡亥を諫めた。「関東の群盗はあちこちで決起し、秦軍を動員して討伐して大勢を討ち取りましたが、群盗は多く、決起は止むことはありません。これは、兵役や労役で苦しみ、賦税が大きいからです。しばらく、阿房宮の工事を中止して、四方の兵役や輸送の労役を減らしてください」。

胡亥は「『(古代の聖人である)尭や舜の生活が質素であり、苦役を行った。天子が貴いのは、意のままにふるまい、欲望を極めつくして、法を厳しくすれば、民は罪を犯さず、天下を制御することができる。天子であるにも関わらず、質素な生活と苦役を行い、民に示した舜や禹は手本にすることはできない』と韓非子は言っている」と反論した上、「朕(胡亥)は帝位につきながら、その実がない。私は(皇帝・天子の)名にふさわしい存在となることを望んでいる。君たちは先帝(始皇帝)の功業が端緒についたことを見ていたであろう。朕が即位して2年の間、群盗は決起し、君たちはこれを治めることができなかった。また、先帝の行おうとしていた事業(阿房宮の工事など)を止めさせようと望んでいる。先帝の報いることもできず、さらに朕にも忠義と力を尽くしていない。どうして、その地位にいることができるのか?」と言って、馮去疾・李斯・馮劫を獄に下して、余罪を調べさせた。馮去疾と馮劫は自殺した。李斯は禁錮させられた。

胡亥は、趙高に、李斯の罪状を糾明して裁判することを命じ、李由の謀反にかかる罪状について、糾問させた。李斯の宗族賓客は全て捕らえられた。胡亥は使者を派遣して、李斯の罪状を調べさせたところ、李斯は趙高の配下による拷問に耐えられず、罪状を認めたしまった。胡亥は、判決文の上奏を見て、喜んで言った。「趙君(趙高)がいなければ、丞相(李斯)にあざむかれるところであった」。胡亥が取り調べようとしていた三川郡守の李由は、使者が着いた時には、項梁配下であった項羽と劉邦と戦い、戦死した後であった。趙高は李斯の謀反にかかる供述をでっちあげた[22]

李斯に五刑[25]を加え、咸陽の市場で腰斬するように判決が行われた。李斯の三族も皆殺しとなった[22][26]

同年後9月[27]、章邯は楚軍の名将(周文・陳勝・項梁ら)がすでに死んだため、黄河を渡って北上して、趙王である趙歇らの籠る鉅鹿を包囲した。

この頃[28]王離王翦の子の王賁の子)に命じて、趙を討伐させる。王離は趙歇・張耳らの籠る鉅鹿を包囲した[29]

鹿を謂いて馬となす編集

二世三年(紀元前207年)10月、章邯が趙の邯鄲を破り、住民を河内に移住させた。

冬、李斯が死んだため、胡亥は趙高を中丞相に任命した。諸事の大小となく、全て趙高が決裁することとなった。

同年12月、楚軍を率いる項羽が趙を救援し、鉅鹿を囲む秦軍を大破して、秦軍の包囲を解いた。魏・趙・斉・の諸侯の軍は項羽に属することになった(鉅鹿の戦い)。

同年1月、項羽率いる諸侯連合軍によって一気に攻められ、秦軍を率いる王離が捕らえられる。

同年2月、項羽率いる諸侯連合軍によって、秦軍を率いる章邯が破られる。章邯の軍は退却した。

同年3月、楚軍の劉邦が趙賁の軍を破り[30]、開封を攻め、さらに、秦将の楊熊を破った。楊熊は滎陽へ敗走した。胡亥は、使者を派遣して、楊熊を処刑にしてみせしめにした[31]

同年4月、項羽率いる楚軍は一気に章邯を攻めた。章邯は戦ったが、しばしば退却した。胡亥は使者を派遣して、章邯を責めた。章邯は恐れて、司馬欣を咸陽に派遣して、指示を仰ぎ、援軍を請わせた。趙高は司馬欣を会おうとせず、(章邯の言い分を)信じずに、章邯を責めた。

同年5月、趙高が司馬欣を捕らえて処刑しようとしたため、司馬欣は恐れて逃亡した。司馬欣は秦に対して、反するように章邯に進言する。

同年6月、章邯は項羽率いる楚への降伏を交渉し、交渉中に項羽は秦軍を攻撃して打ち破った。

同年7月、章邯率いる秦軍は、項羽率いる楚軍に降伏することを伝え、殷墟において開盟した。項羽によって、章邯は雍王に封じられた。

劉邦は宛を攻めて、南陽郡を降伏させ、その郡守である呂齮[32]を殷侯に封じた[33]

同年8月、これより以前、趙高は「関東の盗賊は何もできない」と何度も言っていた。しかし、秦軍が敗北し、函谷関より東は秦の役人に反して、諸侯に呼応し、西の咸陽へ向かってきていることを伝わってきた。

趙高は謀反を起こそうとして、群臣たちが謀反について聞き入れないことを恐れて、まずは試そうとした。そこで、趙高は鹿を胡亥に献上して言った。「です」。胡亥は笑って言った。「丞相(趙高)間違えたのか。鹿のことを馬とするとは(鹿を謂いて馬となす)」。胡亥が左右の家臣に問うと、ある者は沈黙し、ある者は趙高におもねり従い、『馬』と言い、ある者は『鹿』と言った。そこで、趙高はひそかに『鹿』と答えた諸々の者たちを、法をあてて処罰した。これより後、群臣たちは趙高を恐れた。これが、いわゆる「指鹿為馬(鹿を指して馬となす)」の故事となる出来事であった。

章邯率いる秦軍が、項羽率いる諸侯の軍に正式に降伏した。

劉邦が数万人を率いて、秦の武関を攻めて、打ち破った。劉邦は使者を派遣して、趙高とひそかに意を通じ合わせてきた。

望夷宮の変とその後編集

『史記』始皇本紀における胡亥の死に関わる事変である「望夷宮の変」については、該当項目を参照。

ここでは『史記』李斯列伝に記述された『史記』始皇本紀とは内容の異なる「望夷宮の変」について記載する。なお、指鹿為馬の故事にかかる記述についても、『史記』始皇本紀と異なるため、あわせて、ここに記載する。

ある時、趙高は胡亥に鹿を献じて、「馬です」と言った。胡亥が左右の家臣に「これは鹿ではないのか」と問うた。家臣は皆、「馬です」と言った。胡亥は、自分の気がおかしくなったのではないかと考え、太卜(卜筮官の長)を召して、占わせた。太卜は言った。「陛下(胡亥)は春秋の郊祀(郊外での皇帝の天地の祭り)と宗廟祖霊への奉仕において、斎戒(神々を祭る時、女性との交わりや飲酒を控え、身を清めること)が十分ではありません。そのため、このようなことになったのです。徳を高めて、斎戒を十分にしてください」。そこで、胡亥は上林苑(皇帝の苑)に入って斎戒に努めた。毎日、遊び・狩りを行っていたところ、上林苑の中に入っている人がいた。胡亥は自ら、その人を射殺した[5]

趙高は、(趙高の)娘婿である咸陽令の閻楽に「何者かが人を殺して、上林苑に移した」として取り調べを行わせた一方、胡亥を諫めた。「天子が理由もないのに、無辜の人を殺したとは、上帝(天帝)が禁じていることです。祖霊も祀りをうけいれず、天はいまにも(胡亥に)災いをくだすでしょう。遠く咸陽宮を避けて、御払いをなさるべきです」。そこで、胡亥は皇居から出て、望夷宮へと移った[5]

胡亥が望夷宮に留まり、3日経ったところで、趙高は(胡亥の)詔を偽って、衛士に服喪の白い衣を着せて武器を持たせ、望夷宮へ入らせた。趙高は望夷宮に入って、胡亥に告げた。「山東の群盗の兵が大勢、来ました!」。胡亥は楼の上に登って、兵たちを見て、恐れおののいた。趙高に脅された胡亥は、自殺をした。享年は24歳、もしくは15歳とされる[5]

趙高は胡亥から皇帝の玉璽を奪い取ったが、百官が従わなかったため、胡亥の兄[34]である子嬰に玉璽を渡す[5]

同年9月、趙高により、子嬰は秦王に即位する。胡亥は、庶民の礼式で、杜南の宜春苑の中に葬られた。

子嬰は趙高を殺し、趙高の三族を皆殺しにした。

高祖元年(紀元前206年)、子嬰は咸陽に攻めてきた劉邦に降伏した。これにより、秦は滅びた。

後世の風説と逸話編集

始皇32年(紀元前215年)、始皇帝の巡遊中に、方士である燕人の盧生が人を遣わして、海より持ち帰り、鬼神の事を記したものとして『録図書』という書物を奏上してきた時、秦を滅ぼす者は胡なり」という一文が記されていた。始皇帝はこのため、将軍の蒙恬に命じ、30万の軍を出動させて、北の胡人(匈奴)を討伐させ、河南の地(オルドス地方)を奪い取った。

後漢の学者である鄭玄はこの事を指して、「『胡』とは胡亥、秦の二世皇帝の名である。秦(始皇帝)は図書(録図書)を見て、それが人名であるとは思わず、北の胡人に備えてしまったのだ」と論じている[35]

また、胡亥が咸陽城をで塗ろうとしたところ、優旃(冗談が巧みな秦に仕えた小人の芸人)が冗談めかして諫めたため、胡亥が笑って、中止したという逸話がある[36]

前漢時代に記されたと見られる『趙正書』では、病気が重くなり死の淵にあった始皇帝(ただし、『趙正書』では皇帝に即位せず、秦王)が、李斯と馮去疾が胡亥を後継とすることを提案し、始皇帝の同意を受け、胡亥は正式に秦王として即位している。『趙正書』において、胡亥は子嬰や李斯の諫言を聞かず、李斯を処刑し、趙高を用いて、趙高に殺されている[37]

評価編集

前漢の政治家である賈誼は、その著書『過秦論』の中で、胡亥を次のように評価している。

「秦の二世皇帝(胡亥)が即位すると、天下の人は全て彼の政治に期待を込めた。もし、二世が並みの君主の行いをして、始皇帝の(苛政による)過ちを正して、封建制にもどし、礼制度を整え、罪人を開放し、法や刑罰を緩くして、労役や税を軽くし、民を救済して、行いを修め、各々が身を慎めるようにすれば、天下の民心は帰服したであろう。しかし、二世は無道の政治を行い、阿房宮の建造を行い、刑罰を厳しくし、賞罰は不適当で、労役や税を重くし、民が困窮しているのに、救おうとしなかった。反乱が起きても、秦の君臣は責任のがれをし、刑死するものが多く、皇帝・官吏・庶民まで安心して暮らすことができなくなった。胡亥が皇帝に即位して天下を治めながら、殺戮されてしまったのは、始皇帝から続いた民心が安定しない政治を正すことを(正すどころか、より厳しい政治を行うことで)誤ったからである」。

また、後漢の歴史家である班固は、胡亥のことを「胡亥は極めて愚かだった。驪山や阿房宮の工事を行い、『天下を有するものが(天子)が貴いとされるのは、意のままにふるまい、欲望を極めつくすからである』と言った。大臣が始皇帝の事業を中止したいと望んだら、(諫めた)李斯と馮去疾を処刑し、趙高を信任した。(胡亥の言葉は)人の頭を持ちながら、獣の鳴き声(のようなもの)だ! 悪を重ねなければ、空しく滅びることもなかったろうに! 帝位にとどまることができない状況でも、残虐な所業を行い、滅亡の時期を早まらせた。要害の国にいても、なお存続はできなかったのだ」と評している[38]

『趙正書』では、「胡亥は諫言を聞かなかったために、即位して4年で殺されて、(秦)国は滅びてしまった」と評している[39]

鶴間和幸は「(上述した通り、胡亥が12歳で即位して、15歳で死去したことを前提として)暗愚で無能な皇帝という評価を下すには若すぎる。むしろけなげに父始皇帝のあとを見届けた少年皇帝であった」と評している[40]

脚注編集

  1. ^ 以下、特に注釈がない部分は、『史記』秦始皇本紀・六国年表第三・秦楚之際月表第四による。
  2. ^ 年号は『史記』六国年表第三・秦楚之際月表第四による。西暦でも表しているが、この時の暦は10月を年の初めにしているため、注意を要する。まだ、秦代では正月を端月とする。
  3. ^ 胡亥らに関する史記の記述が本紀・列伝・表など記述箇所が違う場合、大きく異なることがあるが、鶴間和幸は「このような矛盾は『史記』の記述ではよくあることだ。由来の異なる伝承をそのまま別個にとりあげているので、無理して矛盾を解消しない方がよい」と述べている。鶴間和幸『始皇帝陵と兵馬俑』126頁
  4. ^ 鶴間和幸『人間・始皇帝』201・202頁、211頁
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 『史記』李斯列伝
  6. ^ 『史記』陳渉世家を注釈する『史記索隠』による。
  7. ^ 鶴間和幸は、「皇帝の側近として仕える官吏は、一般の官吏とは一線が引かれていた。宦者と呼ばれて宦籍に登録されていたのである。皇帝に宦(つか)えることに、本来は去勢された男子の意味はない。後漢以降、宦者にはいわゆる去勢された男子がもっぱらあてられたが、始皇帝の時代は一般の男子も皇帝の側近であれば宦者と言われた。」としている。鶴間和幸『人間・始皇帝』203頁
  8. ^ 藤田勝久『項羽と劉邦の時代』第三章
  9. ^ 『史記』蒙恬列伝
  10. ^ 『史記』六国年表第三による。『史記』始皇本紀では、胡亥の兄の子、『史記』李斯列伝は、始皇帝の弟とする。
  11. ^ 『史記』六国年表第三には、「就阿房宮」とあるが、実際は完成していない。
  12. ^ 巡行に趙高が同行していたかは不明。趙高は咸陽にて留守を行い、この相談は巡行以前に行われていたことや、書簡で相談を行ったことも考えられる。
  13. ^ 『史記』劉敬叔孫通列伝
  14. ^ 『史記』始皇本紀では、二世二年(紀元前208年)冬とするが、ここでは『史記』秦楚之際月表による。
  15. ^ 司馬欣と董翳は遅くとも、陳勝の戦死までには章邯の増援として到着している。
  16. ^ 『史記』陳渉世家
  17. ^ 『史記』魏豹彭越列伝
  18. ^ 『史記』田儋列伝
  19. ^ 『史記』始皇本紀では、二世二年(紀元前208年)9月(『史記』秦楚之際月表第四より)の項梁の死後の事件とするが、『史記』秦楚之際月表第四では同年8月頃(『史記』李斯列伝では同年7月以前)とする李由の生前の事件にあたる。そのため、『史記』始皇本紀の陳勝・魏咎の死後とする記述にのっとり、ここに記載する。
  20. ^ 李斯の故郷である上蔡と、陳勝が住んでいた陽城は近接している。
  21. ^ 宦官の意味ではあるが、後漢書の官者列伝には「中興之初,宦官悉用閹人,不復雜調它士」とあり、秦代の宦官は去勢した男性(=閹人)とは限らないため、注意を要する。三田村泰助は、「宦官という言葉は、単に去勢された男性をさす場合と、宮廷に奉仕するものと二つの意味がある」としている。三田村泰助『宦官(かんがん)―側近政治の構造』2頁。
  22. ^ a b c d e 『史記』項羽本紀
  23. ^ 『史記』項羽本紀では、「秦」としている。
  24. ^ 『史記』六国年表第三では、二世二年(紀元前208年)の出来事として、『将軍章邯、長史司馬欣、都尉董翳追楚兵至河』とする事件の次に、『誅丞相斯、去疾、将軍馮劫』という事件の記載させている。前者については、『史記』秦楚之際月表第四において、同年9月とする章邯らが項梁を破り、戦死させた事件のこととみなし、李斯ら刑死をその後に記述する。
  25. ^ 漢代においては、黥(いれずみ)・劓(鼻削ぎ)・宮(腐刑)・刖(足切り)・殺(死刑)とする。『漢書』刑法志
  26. ^ 李斯の刑死は、『史記』李斯列伝では、二世二年(紀元前208年)7月の事件とするが、『史記』秦楚之際月表第四では同年8月に李由は戦死しており、『史記』李斯列伝ではその後の事件とする。また、『史記』六国年表第三では、二世二年(紀元前208年)の事件とするが、『史記』始皇本紀では、二世三年(紀元前207年)の早くても11月の項羽による鉅鹿救援後の冬(10~12月)に李斯が刑死されたとする。
  27. ^ 後9月は、顓頊暦における閏月
  28. ^ 『史記』張耳陳余列伝では、王離が鉅鹿を包囲したのは、章邯が趙の邯鄲を破り、住民を河内に移住させる後になるが、同じく『史記』張耳陳余列伝によると、王離は数か月に渡り、鉅鹿を攻めているため、仮にここにいれる。
  29. ^ 『史記』王翦白起列伝。
  30. ^ 『史記』曹相国世家。
  31. ^ 『史記』高祖本紀。
  32. ^ 『漢紀』高祖皇帝紀第一。
  33. ^ 『史記』高祖本紀。
  34. ^ 『史記』六国年表第三による。『史記』始皇本紀では、胡亥の兄の子、『史記』李斯列伝は、始皇帝の弟とする。
  35. ^ 『史記』始皇本紀を注釈する『史記集解』による。
  36. ^ 『史記』滑稽列伝。
  37. ^ 工藤卓司『北京大学蔵西漢竹書『趙正書』における「秦」叙述』190-196頁
  38. ^ 『史記』始皇本紀に附された班固が後漢の明帝に奉じた文に記載。
  39. ^ 工藤卓司『北京大学蔵西漢竹書『趙正書』における「秦」叙述』196頁
  40. ^ 鶴間和幸『人間・始皇帝』211・212頁

参考文献編集

参考論文編集