晴山 重三郎(はれやま じゅうざぶろう)は、江戸時代から昭和初期まで久慈八日町(現在の 岩手県 久慈市十八日町から八日町一帯)に屋敷を構えた橘屋晴山家の当主。歴代重三郎を名乗ることとなっている。歴代の当主は八戸藩の鉄山支配人や久慈町長などを務めた。

大正期に消防団幹部と撮影(久慈町長時代と推定)
九戸政実公ゆかりの九戸神社九戸村)に奉納した手水(江戸時代中~後期と推定)

概要 編集

一族である晴山福一郎家の伝承によると、橘姓で京都に住していたが、奥州に下って晴山村(岩手県九戸郡軽米町)に土着し、地名から晴山を称しを築いたという(橘奈良麻呂の乱以降か)。天正19年(1591年)の九戸政実の乱で滅亡するも、末孫が久慈に住したと伝える。江戸時代中期から末期かけて名主を務め、漁業、質屋、酒造などを営み、鉄山支配人をも務めた。当時、八戸藩は出雲と並ぶ日本の二大鉄産地とされた。昭和35年(1960年)に没した重三郎は、久慈町長や岩手県議会議員の他、大正6年に九戸水力株式会社を設立し社長に就任。岩手県北地域に電気をともした。

その後、大正時代に2度あった久慈町大火などの影響により破産し絶家となった。

参考文献 編集

  • 『文と武 : 晴山福一郎遺稿集』 晴山一貫編、2002年6月刊行
  • 『岩手県姓氏歴史人物大辞典』岩手県姓氏歴史人物大辞典編纂委員会編 角川書店
  •  橘屋について 合同会社たちばな屋ホームページ

関連項目 編集