暴 顕(ぼう けん、503年 - 568年)は、中国東魏北斉軍人は思祖。本貫魏郡斥丘県

経歴編集

北魏恒州刺史・左衛将軍の暴誕の子として生まれた。騎射を得意とし、孝荘帝の狩猟に参加して、1日のうちに禽獣73匹を仕留めた。531年、襄威将軍・晋州車騎府長史に任ぜられた。高歓による信都での起兵に参加し、中堅将軍・散騎侍郎・帳内大都督となり、安東将軍・銀青光禄大夫を加えられ、屯留県開国侯の爵位を受けた。535年渤海郡太守となった。538年雲州大中正をつとめ、武衛将軍を兼ね、鎮東将軍を加えられた。539年、大都督・北徐州刺史となった。543年、高歓の下で邙山の戦いに参加し、河橋鎮を守り、中潬城に拠った。544年、征南将軍・広州刺史に任ぜられた。547年侯景河南でそむくと、暴顕は侯景の攻撃を受け、側近の20騎あまりとともに敵陣を突破して、難を逃れた。ときに高岳慕容紹宗らが侯景を討ったが、暴顕の兵士や馬の配分を受けて、高岳らは侯景を渦陽で破ることができた。548年、暴顕は太府卿となった。高澄の下で王思政を潁川に攻撃し、潁州刺史に任ぜられた。549年鄭州刺史に転じた。550年、驃騎将軍を加えられ、爵位は公に進んだ。北斉が建国されると、鄭州刺史のまま、衛大将軍の位を加えられた。552年、清河王高岳とともに歴陽を襲撃して落とした。財貨を隠匿した罪で、鄭州刺史を解職された。処分が終わらないうちに、合肥軍に包囲されたため、歩大汗薩慕容儼らとともに梁の北徐州を攻め、刺史の王強を捕らえた。梁の秦州刺史の厳超達と涇城で戦い、これを撃破した。554年、儀同三司の位を受けた。高岳とともに南方の漢水に進出し、梁の楚州に攻め下り、刺史の許法光を捕らえた。梁の蕭循や侯瑱らが慕容儼を郢州で包囲すると、暴顕は水軍大都督となり、灄口から長江に入って慕容儼を救援した。凱旋すると、開府儀同三司の位を加えられた。559年、車騎大将軍に任ぜられた。560年、楽安郡開国公に改封された。561年趙州刺史となった。562年洛州刺史に転じた。563年朔州刺史となった。565年、特進・驃騎大将軍の位を加えられ、定陽王に封ぜられた。568年、66歳で死去した。

伝記資料編集