有元史郎
有元 史郎(ありもと しろう、1896年(明治29年)6月25日 - 1938年(昭和13年)5月30日)は、日本の教育者、政治家。芝浦工業大学創設者[1][2]。第4代岡山県津山市長(1937年)[3]。広島県尾道市土堂町出身。本姓は菅原氏。諱は頼忠。
有元史郎 ありもと しろう | |
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津山市長在任中に撮影された肖像 | |
生年月日 | 1896年6月25日 |
出生地 | 広島県尾道市 |
没年月日 | 1938年5月30日(41歳没) |
出身校 | 東京帝国大学工学部機械工学科 |
在任期間 | 1937年8月15日 - 1937年10月17日 |
経歴
編集広島県尾道市土堂町出身[2]。船具を扱う尾道の名家有元益太郎季久の四男として生まれるが、会社が廃業し3歳のとき、兄2人とともに叔母に引き取られる[1][2]。14歳のとき、家出同然に兵庫県西宮市の叔父のもとへ向かう。奉公の後、独力で大阪天王寺の桃山中学校に編入、しかし腸チフスに感染し同校退学。一年間兵役に服した後、検定試験で中学を卒業。兄の援助を受け1919年、鹿児島の第七高等学校理科甲類入学[3]。同校を経て1925年、東京帝国大学工学部機械工学科卒業[2][3]。その後同大学経済学部へ学士入学し、以降、同大学院、法学部、日本大学の商科、文科へ入学と卒業を繰り返し、計5つの学士号を取得した[2][4]。1927年、30歳の若さで東京府荏原郡大森(現・大田区)に芝浦工業大学の前身、東京高等工商学校を創設し校長に就任[2][3][5]。建学の理念として「実用的な技術と知識を併せ持って技術立国を担う技術者、しかも高い倫理観と豊かな見識を備えた優れた技術者の育成」を掲げた[6]。同年、東京府芝区(現・港区)に第二校舎(芝浦校舎)を開設。
1937年、岡山県津山市より市長就任の依頼を受け受諾[2]。直前に日華事変が勃発し、当時の岡山県知事・伊藤武彦と共に出征軍人家族の救援資金集めに奔走するが、就任1ヵ月にして疑獄事件に巻き込まれ、僅か2ヵ月で辞任した[3]。翌1938年、走行中の列車から転落し41歳で世を去った。墓所は池上本門寺。
脚注
編集- ^ a b 建学の精神 - 法人概要 - 大学案内 - 芝浦工業大学、芝浦工業大学-デジタルアーカイブ [芝浦の歴史]-
- ^ a b c d e f g 日外アソシエーツ編『学校創立者人名事典』、紀伊国屋書店、2007年、16-17頁
- ^ a b c d e 『日本の歴代市長』(第三巻)、歴代知事編纂会、1985年、56頁
- ^ 朝日新聞デジタル:私立大学の原点
- ^ 港区公式ホームページ/芝浦港南地区の大学紹介 芝浦工業大学
- ^ 芝浦工業大学|大学データベース|電気工学を学ぶ|パワーアカデミー