朝野真吉
朝野 真吉(あさの の まよし)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。名は貞吉とも記される。姓は宿禰のち朝臣。参議・朝野鹿取の近親(子息か)。
時代 | 平安時代初期 - 前期 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 不明 |
別名 | 貞吉 |
官位 | 従五位上・加賀守 |
主君 | 仁明天皇→文徳天皇→清和天皇 |
氏族 | 朝野氏 |
経歴 編集
その後散位となるが、承和9年(842年)7月に発生した承和の変に際して朝廷が山城国の五道を閉鎖した際、真吉は山埼橋に派遣されてその守護を担当した[1]。また、同年12月には参議・朝野鹿取とその子女19人が宿禰姓から朝臣姓に改姓しているが、この際に真吉も改姓したと想定される。承和10年(843年)6月に鹿取が薨去すると、9月に真吉は中務少輔に任ぜられ京官に復す。
天安元年(857年)備中介に任ぜられると、貞観2年(860年)備中守に昇格し、貞観4年(862年)には23年ぶりに昇叙され従五位上となる。その後散位となるが、貞観12年(870年)加賀守と文徳朝末から清和朝にかけて地方官を歴任した。
官歴 編集
『六国史』による。
脚注 編集
- ^ 『続日本後紀』承和9年7月17日条