木元 伝一(きもと でんいち、1906年3月 - 1995年1月11日)は、アメリカ共産党に所属し、太平洋戦争前後の時期に左翼活動に携わった日系アメリカ人。「ロイ・レーン」「サブロウ・ナカノ」などと名乗る。

ハワイ共産党英語版を創設し、日米戦争中はアメリカの戦時情報局(OWI)で働き、対日心理戦に従事。戦後、ハワイ共産党のトップに就任。マッカーシー旋風の際、「ハワイの七人」の一人として起訴されたが、控訴して勝利した。ゾルゲ事件で逮捕された宮城与徳を日本に送り込んだ。

生涯・人物 編集

1906年3月、ハワイオアフ島に生まれた。8歳のとき(1914年)日本の教育を受けるため帰国し、10歳のとき(1916年)ハワイに戻った。1920年ホノルルに移住。1925年西本願寺が経営するハワイ中学を卒業してハワイ報知新聞に就職。1931年、ハワイからロサンゼルスに行き、アメリカ共産党に入党。

1933年9月、宮城与徳に日本行きを指示し、11月7日、国際レーニン学校に留学のためモスクワ到着した。アメリカ共産党との連絡は「ニシ」(ジョー・小出、本名鵜飼宣道)を通じて行った。1935年5月、プロフィンテルンから、アメリカに戻って岡野進(野坂参三)の手助けをするように指示され、加藤勘十の通訳と案内を務めた。プロフィンテルンの日本人向けに『太平洋労働者』の発行に従事した。1937年1月、在米日系共産主義者の機関紙『同胞』の創刊に関わり、4月、ハワイ共産党を創設した。

太平洋戦争が始まると、アメリカの戦時情報局 (OWI)で働き、対日心理作戦に従事した。1946年、ハワイ共産党のトップに就任。ホノルル・レコード紙英語版で働いた。1948年ハワイ・スター紙を創刊し、編集長となった。

1951年マッカーシー旋風がアメリカ全土を襲うと、共産主義の陰謀に関与したとして、「ハワイの七人」の一人として起訴されたが、控訴して勝利した。1958年、テレビ修理工になり、後にトップ・テレビ・サービスの経営者になった。

1975年、日本を訪問し、野坂参三と会談した。1995年1月11日、死去[1][2]

注釈 編集

  1. ^ 白井久也小林俊一編『ゾルゲはなぜ死刑にされたのか』社会評論社、2000年、319頁。ISBN 978-4784505524 
  2. ^ 渡部富哉「ロイと呼ばれた男の正体」『諸君!』1998年7月号、文藝春秋[要ページ番号]