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日系アメリカ人

日本にルーツを持つアメリカ国民

日系アメリカ人(にっけいアメリカじん、英語:Japanese American)は、アメリカ合衆国市民の中で日本にルーツがある人々のこと。19世紀末の移民によってアメリカ合衆国に渡った人々とその子孫のことを指すことが多い。

Japanese Americans
日系アメリカ人(日系米国人)
Nikkei Amerikajin (Nikkei Beikokujin)
日本の旗アメリカ合衆国の旗
Sessue Hayakawa 1918.jpg
Norman Mineta, official portrait, DOT.jpg
Eric Shinseki official portrait.jpg
Utada Hikaru 2004.jpg
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総人口
1,220,922
合衆国総人口の0.4%(2007年)[1]
居住地域
西海岸ハワイ州ハワイにおける日本人移民)、北東部
言語
アメリカ英語日本語
宗教
仏教キリスト教神道[2]
関連する民族
日本人日系ブラジル人日系ペルー人日系アルゼンチン人日系ボリビア人日系パラグアイ人日系ウルグアイ人日系コロンビア人日系ベネズエラ人日系チリ人日系キューバ人日系ドミニカ人日系メキシコ人日系カナダ人日系オーストラリア人アジア系アメリカ人

目次

概説編集

日系アメリカ人は、2005年の国勢調査において1,221,773人、アメリカ合衆国(以下アメリカ)の総人口の0.4%を占めている。日系人コミュニティーはカリフォルニア州ハワイ州ニューヨーク州ワシントン州にあるものが大きい。現代でも年に7000人近い日本人グリーンカード(永住権)を取得してアメリカに移住している。2011年の調査では、アジア系アメリカ人の内訳では、中国系、フィリピン系、インド系ベトナム系韓国系に次いで、日系アメリカ人は6番目、7.5%となっている[3]

日系アメリカ人は初めてアメリカにわたった第一世代のことを一世、その子供たちの世代を二世三世四世五世(en:Gosei (fifth-generation Nikkei))と呼んでいるが、イッセイ (Issei) やニセイ (Nisei) といった言葉は英語でも通用する言葉になっている。

 
日系人の強制収容所の一つであるマンザナール強制収容所

日系アメリカ人は当初から偏見と差別に苦しむことが多く生活も苦しかった。特に、北米及び南米へ移民した日系人の中には、第二次世界大戦中に強制収容所に収容されたり、戦後しばらくも激しい民族差別を受ける立場にあった者が多かった。しかし、汗水流して働き、教育熱心で、第442連隊戦闘団に代表されるようにアメリカ国民としての義務を果たし、立派なよきアメリカ国民になろうと努力していた。特に一世の世代は過酷な労働をこなしながら、稼いだお金を自分たちのためには使わず、子供たちの教育のために注いだ。

 
聖学院アトランタ国際学校
(写真は、2014年3月23日)

一世や二世の時代に第一言語として用いられた日本語も、世代が進み現地化が進むごとに徐々に現地語である英語にとって変わられ、自然な流れとして日本語を理解しない日系人が増えている。そのため、家庭や居留国の日本語補習校などで日本語教育を受けた人物も少数ながらも存在はするものの、三世や四世の世代で日本語を話すことができる人々は主に外国語として日本語を学んだ人々である。アジア系移民で特に母国の公用語に英語が含まれない国出身の家庭では、英語以外の母国語が使われるケースが多いが、その中でも日系人に限り、半数以上の家庭で英語のみが使われ、英語が主流という家庭も含めるとほぼ4分の3までもが家庭内でも英語を会話に用いており、日本語が使われているケースは他非英語系アジア移民の率の半分ほどである[4]

なお、1920年代前後に出生している二世は、日本での教育費用が居留国のそれと比べて安価であったこと、または、日本文化を継承する目的で日本の学校に通うことがある種の流行になった時期がある。ハワイ・オアフ島ワイキキ界隈や、ロサンゼルスリトル・トーキョーサンフランシスコのジャパンタウンなどの日本人街では、今でも多くの日本語の看板を目にすることができる。

ただし、北米の日系人は韓国系アメリカ人中国系アメリカ人などと比べると、民族街に集結したり、相互扶助を行うことが少ない。特に北米では、第二次世界大戦において日本がアメリカの敵国となったこともあり、祖国への忠誠を誓う目的で、あまり日系人が民族性を出さず、アメリカに同化するように努力したことも関係している。戦前に築いた日系コミュニティー、つまり日本町が、西海岸の数箇所でしか保存できなかったり、多くが消滅してしまったのは、構成していた不動産や財産を彼らが強制収容所に送られる前に手放さざるを得なかった上に、大戦後も残る日本への反感の中で、アメリカに同化して暮らさざるを得なかったからである。

歴史編集

日系アメリカ人の歴史は19世紀末の移民に始まる。最初の移民たちはハワイのサトウキビやパイナップル畑の労働者として入植した。後に日本から多数の移民が入植した。しかし低賃金で働く勤勉さと生活力、また地元経済に金を落とさない(日用品を日本から取り寄せていた)こと、そしてアメリカのマジョリティであった白人種のキリスト教徒と文化が異なる黄色人種であったために疎まれ、第一次世界大戦における同盟国であったにもかかわらず、カリフォルニア州などでは白人種による日系移民の排斥運動が起こった。

そして第二次世界大戦時における日米間の対立と日系人の強制収容という悲劇を乗り越え、日系人による経済的成功や社会的成功と合わせて、日本とアメリカの同盟関係の構築や1960年代以降の公民権運動、日米間の経済的な結びつきの強化などが後押ししたアメリカ社会における地位向上の時代を経て現代に至っている。

  • 江戸時代 名前、出生などの具体的記録は残っていないが、既に移民が開始されていた中国人により、日本人女性が人身売買同然にアメリカに連れて行かれ、売春宿で働かされていたとの記録がある。[要出典]
  • 1806年 大坂の稲若丸の乗組員8名が漂流中にアメリカ船に救出された後にハワイへ送られ、8名はハワイに初めて上陸した日本人となる。8名はマカオバタヴィアを経て日本に送還されるが、伝染病や自殺により故郷に帰ることができたのは平原善松のみである。
  • 1833年 尾張国の宝順丸が14ヶ月の漂流の末、ワシントン州クララム郡フラッタリー岬付近に漂着。生き残った音吉ら3名はアメリカ・インディアンマカ族に奴隷として酷使された後、イギリスハドソン湾会社に救出され、イギリスの保護下に入る。その後、バンクーバー、ハワイ、ロンドン、マカオを経て那覇に送られ、ここでモリソン号に移乗するが三浦半島沖でモリソン号事件が起こったため帰国できなかった。
  • 1841年 土佐国漁師万次郎(後のジョン万次郎=中浜万次郎)が漁の最中に遭難、漂着した鳥島でアメリカの捕鯨船に救助されハワイに渡航、1843年マサチューセッツ州に渡り、カリフォルニア州を経由し、1851年琉球経由で日本に帰国。
  • 1850年 浜田彦蔵(後に洗礼名ジョセフ・ヒコ)が他17名とともに航海中遭難しアメリカ船により救出、サンフランシスコに渡航。1858年、日本人として初めてアメリカ市民権を取得する。のちに日本帰国。1850年のアメリカ国勢調査票原票には 8 名の日本人のものがあり、これが原票記載として最も古いと思われ,8 名の職業はすべて「水夫」( “Mariners”) と記載されていた[5]
  • 1860年 出島松蔵が横浜からサンフランシスコに密航し、その後ペンシルベニア州に移住。維新後に帰国し、日本で初めてアイスクリームを製造した。後、クラーク博士の秘書となる。
  • 1861年 スズキキンゾウ(漢字不明)なる日本人がオレゴン州ポートランドに渡航し定住。
  • 1866年 江戸幕府、日本人の海外渡航を解禁。外国奉行が雑伎人(ざつぎにん。曲芸師のこと)らに免許状(パスポートに相当)を発行、興行のために渡米した記録が残る。
  • 1868年 オランダ系アメリカ人、ユージン・ヴァン・リードの手引により、「元年者」と呼ばれる149人(外務省資料によると153人)の移民がハワイに到着。ただし契約自体徳川幕府とイギリス人ブローカーとの間で締結された3年間の労働契約であり、明治政府からは非公認であった。
  • 1869年会津藩の武器御用商人だったジョン・シュネル(スネル)が、旧会津藩士ら約40名ほど(詳細な記録がないため正確な人数は不明)を連れ、明治政府に無許可でカリフォルニア州ゴールド・ヒルに移住、養蚕を目的とした「若松コロニー」を作るが、わずか2年で頓挫。シュネルは逃亡、渡航した日本人は取り残されたが、詳しい消息が判明しているものはごくわずか。
  • 1869年 元年者のうち40人ほどが、3年の労働契約満了を待たずに日本に帰国。
  • 1870年に行なわれたアメリカ国勢調査では、ハワイを除き、55名の日本人がアメリカ本土に居住していたとされる(発表は1872年。多少の誤差を含む)[5]
  • 1871年 8月、大日本帝国ハワイ王国との間で日布修好条約締結。元年者でアメリカ本土渡航を希望する者に明治政府が旅券を発行。
  • 1872年 ニューヨークに日本総領事館開設。
  • 1879年 松平忠厚(最後の上田藩藩主松平忠礼の弟)が、ニュージャージー州への留学の後エンジニアとしてコロラド州に移住。
  • 1881年 ハワイ王国(当時)のカラカウア王が、他国の国家元首として初めて訪日、明治天皇と会見し、新たに日本からハワイへ移民を送ることに合意する。
  • 1884年 明治政府、日本人の海外渡航を正式許可。ハワイに日本領事館開設。
  • 1885年 1月、ハワイへの明治政府公認の最初の組織的移民944人が農園労働者として渡航。
  • 1885年 石川県出身の白山谷喜太郎(しらやまだに きたろう。英語ではKataroと誤表記されたまま後年に伝わる)がオハイオ州シンシナティにあるロックウッド製陶に技師として招かれる。
  • 1890年 カリフォルニア州への集団移民開始。
  • 1891年 ユニオン・パシフィック鉄道が鉄道建設労働者に日系人の採用を開始。アイダホ州などへの初の日系移民。
  • 1893年 サンフランシスコ教育委員会、日系人子弟の公立学校への入学を拒否する決議を採択(サンフランシスコ日本人学童隔離事件)。当時の日本総領事珍田捨巳の尽力により撤回。
  • 1894年 前年にハワイ王朝が事実上廃止となり、この年からハワイ共和国が樹立された影響で、官約移民そのものが無効となり廃止。廃止までの約10年間で船が26回渡航、約2万9000人が移民。以降は民間の仲介業者による移民となる。
  • 1898年 ハワイがアメリカ合衆国の属領となる。以後ハワイからアメリカ本土への移民制限が緩和される。
  • 1900年 ハワイへの民間業者仲介による移民の中止。業者の仲介により6年間で約3万5000人が渡航。その後は自由移民となる。
  • 1900年 アメリカ本土への日系移民の数が初めて年間1万人に達する。
  • 1900年代 日系移民による土地の開墾と入植が始まる。
  • 1901年 カリフォルニア州とネバダ州各州議会、連邦政府に対し日系人移民を制限する建議書を送る。
  • 1902年 安孫子久太郎が、カリフォルニア州に日系人専門の人材派遣業「日本人勧業社」(のちに日米勧業社)設立。
  • 1902年 日系人によるアメリカでの初の書物となる、ヨネ・ノグチ(野口米次郎イサム・ノグチの父)の作"The American Diary of a Japanese Girl"が出版される。
  • 1903年 西原清東テキサス州に移住、後年同地における稲作を成功させる。
  • 1905年 サンフランシスコに、The Japanese and Korean Exclusion League(日系韓国系排斥協会)が設立され、その後他都市、他州にも同様の組織が設立される。
  • 1906年 サンフランシスコ学務局、公立学校在籍中の日系人子弟を強制的に中国人学校に移籍させる。翌年命令撤回。
  • 1906年 連邦政府、帰化法を改正。司法省、全裁判所に対し日本人の帰化申請を拒否するよう訓令を発布。
  • 1906年 安孫子久太郎により、カリフォルニア州リビングストンに「大和コロニー」設立。
  • 1907年 2月に施行された大統領令により、ハワイ、メキシコカナダからアメリカ本土への日系人の移住禁止。
  • 1907年 ニューヨークでJapan Society(日本協会)設立。高見豊彦が紐育日本人共済会を設立。
  • 1908年 日米両政府間で前年から7度に亘り行われた書簡交換により、紳士協定に基づく日本人の移民制限開始。
  • 1908年 カリフォルニア州で、Japanese Association of America(在米日本人会)設立。
  • 1908年 写真だけのお見合いをしてアメリカの日系人男性のもとへ嫁ぐ女性(いわゆる写真花嫁)の渡航が始まる。
  • 1911年 アリゾナ州で国籍を持たない外国人(=1世)の土地の所有および一定年数以上の借地が禁じられる。
  • 1913年 カリフォルニア州で、上記アリゾナ州と同様の法律(対外国人土地法1913)施行。1世の土地の購入および一定年数以上の借地が禁じられる。同時期、アリゾナ州では期限を問わず1世による一切の借地が禁じられる。その後他州に拡大。
  • 1920年2月 日本政府が「写真花嫁」に対する旅券発行を禁止。
  • 1921年 連邦議会、The Quota Immigration Act(移民割当法)施行。
  • 1923年 ワシントン州で、対外国人土地法修正法により、アメリカ国籍を持つ未成年の日系人の土地所有も禁止され、未成年2世を抜け道的に土地所有者にする手段も絶たれる。
  • 1924年 埴原正直駐米大使の書簡により連邦議会が排日に傾き、5月の合衆国移民法1924 (排日移民法)成立により、正式には7月1日以降、実質的には6月24日、移民船「シベリア丸」でサンフランシスコ港に到着した移民を最後に日本人の移民が全面的に禁止される。
  • 1929年 全米規模の日系人組織、Japanese American Citizens League(日系市民協会)設立。
  • 1930年代 このころカリフォルニアとハワイの日系人たちがようやく経済的に安定した生活を送れるようになる。
  • 1941年11月 サンフランシスコで4名の日系人インストラクターと60名の生徒(うち58名は日系人)によって陸軍情報部日本語学校が設置される。
  • 1941年12月8日 真珠湾攻撃による日米開戦(太平洋戦争)。日系人社会の主だった人々が逮捕される。
  • 1942年2月19日 フランクリン・ルーズベルト大統領による大統領令9066号の発令。「保護」の名目で西海岸地域に住む日系人全員、およびハワイの日系人のうち主だった人々計約11万人が収容所に送られる(日系人の強制収容)。
  • 1942年2月23日 全員日系二世からなる大学勝利奉仕団が、ハワイで第34戦闘工兵連隊のもとに編成される。
  • 1942年5月 陸軍情報部日本語学校の最初の卒業生達が、アリューシャン諸島ならびに南太平洋に派遣される。
  • 1942年6月 ハワイ出身の日系人兵士によってアメリカ陸軍第100歩兵大隊が編成される。
  • 1942年11月24日 マイク正岡らの主導で、陸軍省に日系2世部隊を組織するよう建白書を提出、翌年1月28日に請願が許可される。
  • 1942年12月 5~6日にかけ、マンザナール強制収容所で暴動発生。当局により武力鎮圧、2名が死亡。
  • 1943年1月31日 大学勝利奉仕団の兵士達の希望に伴い、同部隊は解散となり、第442連隊戦闘団への入隊が可能となる。
 
強制収容所に収監される母親を手伝う日系人兵士(1942年5月11日)

著名な日系アメリカ人編集

以下、節順は不同、各節内はラストネーム(名字)で五十音順。

なお:

  1. 活動分野が多岐にわたる場合は、最も著名な方へ分類した。
  2. 両親とも日系で世代が異なる場合は、父方による世代を記載した。
  3. アメリカで生まれたため自動的に米国市民権を持ち、22歳になる前の日本国籍か米国国籍かいずれかを選択するときに米国国籍を選択したが、生活基盤を日本に置いている帰国生徒については、これを省いた。
  4. 逆に、渡米後も米国市民権を取得しなかった(あるいはできなかった)が、永住権を得て生活基盤をアメリカに置き、「事実上のアメリカ人」として生涯の大半を過ごした者については、これを例外的に含めた。

政治家編集

法曹編集

軍人編集

警察編集

宇宙飛行士編集

医学編集

学者編集

実業家編集

  • 青木廣彰 - 一世。通称:ロッキー青木。レストラン・紅花のオーナー、冒険家
  • 安孫子久太郎en:Kyutaro Abiko) - カリフォルニア州に渡った初期の日系移民のリーダー。「大和コロニー」創設。
  • ロバート・キヨサキ - 四世。日本名:清崎徹(きよさき とおる)。投資家・著述家。『金持ち父さん・貧乏父さん (Rich Dad, Poor Dad )』を執筆。
  • 国府田敬三郎 - 一世。農場経営者。代表的なカリフォルニア米「国宝ローズ」を作り上げ、「ライス・キング」と呼ばれた。
  • マモル・タキタニ - 二世。マカダミアをチョコレートで包んだ製品を考案し、ハワイアンホスト社を創業。
  • 浜田彦蔵 - 一世。洗礼名:ジョセフ・ヒコ。日本初の英字新聞発行者。
  • グレン・S・フクシマ - 三世。エアバス代表取締役社長。元アメリカ通商代表部日本部長。
  • ゲーリー・ヤマモト - 二世。日本でも有名な釣具(ルアー)メーカー『ゲーリー・ヤマモト』創設者。
  • 吉田潤喜 - (在日韓国人2世)。 ヨシダソース(ヨシダグルメのたれ)を生産販売してアメリカンドリームの体現者となる。 米国の中小企業局[Small Business Administration(SBA)]が選ぶ全米24社の中に、FedEx,Intel,AOL,HPなど並んで「殿堂入り」を果たし、2005年にはNewsweek誌(日本版)「世界で最も尊敬される日本人100」に選ばれる[7]
  • フレッド・イサム・ワダ - 二世。日本名:和田勇(読み同じ)。ロサンゼルスでスーパーを経営。1964年東京オリンピックの招致活動における重要人物。

建築家編集

造園家編集

芸術家編集

映画編集

俳優編集

モデル編集

放送・報道編集

ミュージシャン編集

スポーツ選手編集

(メダルは各競技会ごとの最高位のみを記載、詳細については各人物の記事を参照のこと)

野球編集

フィギュアスケート編集

バスケットボール編集

その他編集

その他編集

日系アメリカ人を題材とした作品編集

  • ノー・ノー・ボーイジョン・オカダ著。第二次世界大戦中の日系アメリカ人男性の苦悩を描く。
  • 二つの祖国山崎豊子著。第二次世界大戦中の日系アメリカ人の悲劇と苦悩を描いた小説。
  • 『パイナップル部隊』ロバート・本郷著。朝鮮戦争に際して、自分たちのルーツ・日本を訪れる日系人の話。
  • 波の盆』(1983年)戦争によって引き裂かれたハワイ日系移民家族の姿と、それぞれの想いを描いたTVドラマ
  • 山河燃ゆ
『二つの祖国』を原作とする1984年NHK大河ドラマ。当初はアメリカの日本語チャンネルでも放映が予定されていたが、日系人の描写が実際のものとはあまりにもかけはなれたものだったことから「日系人の忠誠心が疑われる」という懸念で中止になった。その後ハワイ州内のケーブルTVでは放送されている。
  • 愛と哀しみの旅路』(1990年)アメリカ映画。第二次大戦下のアメリカ人男性と日系女性との悲恋を描いたラブ・ストーリー
  • ヒマラヤ杉に降る雪』(1999年)アメリカ映画。1950年代の日系人裁判を描く。
  • ピクチャーブライド』(1994年)ハワイ日系アメリカ人の一世、二世世代の厳しい生活を日本から写真花嫁として渡米した女性を通して描くアメリカ映画。
  • さくら』(2002年)NHK朝の連続テレビ小説。日本に赴任したハワイ日系アメリカ人4世の英語担当助手の成長を描く。
  • イーグルかわぐちかいじの漫画。日系三世の民主党上院議員、ケネス・ヤマオカが大統領選挙を勝ち進んでいく姿を描く。
  • パイナップルARMY浦沢直樹の漫画。日系アメリカ人の戦闘インストラクター、ジェド・豪士の活躍を描く。
  • BILLY BAT』浦沢直樹の漫画。日系二世の漫画家、ケヴィン・ヤマガタが下山事件ケネディ大統領暗殺事件に巻き込まれていく姿を描く。
  • 『栄光なき凱旋』(2006年)真保裕一著。
  • ミリキタニの猫(The Cats of Mirikitani)』(2006年)ジミー・ツトム・ミリキタニの半生を描いたドキュメンタリー映画
  • 『屋根裏の仏さま(The Buddha in the Attic)』(2009年)日系二世作家ジュリー・オオツカによる、「写真花嫁」の苦難を通して日系人全体の歴史を描いた全米図書賞最終候補作。
  • 99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜』(2010年)日本のテレビドラマ。

関連項目編集

脚注編集

外部リンク編集