本多忠寛 (西端藩主)
日本の江戸時代後期~明治時代前期の大名。江戸幕府旗本本多忠興次男で、三河西端藩初代藩主(1万500石)
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 天保3年5月17日(1832年6月15日) |
死没 | 明治14年(1881年)6月20日 |
改名 | 一之助(幼名)→忠寛 |
墓所 | 東京都港区虎ノ門の天徳寺塔頭の和合院 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 三河西端藩主 |
氏族 | 本多氏 |
父母 | 父:本多忠興、養母:酒井忠器の姪 |
兄弟 | 万之助、忠寛 |
妻 | 正室:本多助信の娘、継室:水野忠央の娘 |
子 | 忠鵬、正順 |
生涯
編集天保3年(1832年)、9000石の大身旗本である本多忠興の次男として江戸で生まれる。兄の万之助が早世したために世子となり、嘉永5年(1852年)に家督を継いで旗本となった。
元治元年(1864年)の天狗党の乱に出兵し、さらに江戸警備などで功績を挙げたことから、12月23日に伊豆田方郡・賀茂郡6か村などで1100石の加増を受け、高直しで1万500石の大名として取り立てられ、西端藩主となった。
しかし旗本時代から財政が苦しく、嘉永6年(1853年)の時点で1万5000両の借金があった。このため、財政再建と称して慶応元年(1865年)から慶応2年(1866年)にかけて御用金を厳しく取り立て、藩札も発行するなど悪政を行なっている。
慶応3年(1867年)5月20日、病気を理由に家督を長男の忠鵬に譲って隠居した。明治14年(1881年)に死去、享年50。
系譜
編集父母
正室、継室
子女