本多政遂

江戸時代前期の大名、下野榎本藩2代藩主。加賀藩筆頭家老本多政重の次男

本多 政遂(ほんだ まさもろ[1])は、江戸時代前期の大名下野榎本藩の第2代藩主。

 
本多政遂
時代 江戸時代前期
生誕 慶長18年(1613年[1]
死没 寛永15年7月29日1638年9月7日[1]
別名 本多政久[2][注釈 1]、主税助(通称)[2]
戒名 哲秀[2]
墓所 東京都台東区西浅草徳本寺
官位 従五位下、大隅[2]
幕府 江戸幕府
下野榎本藩
氏族 本多氏
父母 父:本多政重、養父:本多忠純
兄弟 政次政遂政朝戸田政勝政長
正室:本多忠純の娘
犬千代
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生涯 編集

慶長18年(1613年)[2][注釈 2]加賀藩家老本多政重本多正信の二男)の二男として生まれる[3]

叔父の本多忠純(本多正信の三男)は下野国榎本藩主であったが、世嗣として定められていた実子の忠次寛永3年(1626年)に17歳で早世した[2]。このため「某年」に忠純の婿養子となった[2]。寛永7年(1630年)、榎本藩の世嗣として将軍徳川家光に拝謁した[2]

寛永8年(1631年)12月13日に忠純が死去した[4](家臣による殺害説がある。本多忠純参照)。寛永9年(1632年)8月26日、遺領相続が認められた[2]。寛永13年(1636年)12月29日、従五位下大隅守に叙任[2]

寛永15年(1638年)7月29日に死去、享年26[2][注釈 2]。浅草の徳本寺に葬られ、以後代々の葬地となった[2]

家督は長男の犬千代(3歳)が継いだ[2]

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 『寛政譜』編纂時の本多政房家(榎本藩主家の名跡を継ぐ形で、正遂の弟・政朝によって興された大身旗本家)からの呈譜[2]
  2. ^ a b 本多政房家からの呈譜によれば享年29[2]。逆算すれば慶長15年(1610年)生まれとなる。

出典 編集

  1. ^ a b c 本多政遂”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus. 2023年8月29日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十三「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.713
  3. ^ “小山評定の群像(62) パワハラ武将本多忠純の思わぬ最期”. 産経新聞. (2015年7月5日). https://www.sankei.com/article/20150705-TQXQ3OC2LZMEZOP6MSLELD42YY/ 2023年8月27日閲覧。 
  4. ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十三「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.712

外部リンク 編集