李 判烈(イ・パニョル、朝鮮語: 이판열/李判烈1908年 - 1950年12月9日)は、日本統治時代の朝鮮および大韓民国の中学校長、政治家。第2代韓国国会議員(任期中に死去)。

イ・パルリョル(漢字同、이판렬)とも表記される[1]

経歴 編集

本籍は全羅南道光山郡中央大学法学部卒。政界入り前は中学校長、精米業などを営んだ[2][3]。政界では民主国民党求礼郡党委員長を務め、1950年の第2代総選挙に民主国民党の公認で求礼郡選挙区から出馬して当選し、国会議員を務めた[3]。しかし、1950年12月に実地調査中に昇州郡(現・順天市)付近で北朝鮮側の敗残兵による奇襲を受け、同行していた警官11名とともに殺害された[1]。任期中であったため1952年2月5日に補欠選挙が行われ、自由党所属の李漢昌が当選した[4]

脚注 編集

  1. ^ a b 李判(이판)열國議員(국의원) 殘匪(잔비)에게被殺(피살)”. NAVER Newslibrary. 조선일보 (1950年12月13日). 2023年10月19日閲覧。
  2. ^ 李判烈(이판열)42民國(민국),新(신)”. NAVER Newslibrary. 경향신문 (1950年6月20日). 2023年10月19日閲覧。
  3. ^ a b 대한민국헌정회”. rokps.or.kr. 2023年10月19日閲覧。
  4. ^ 自由黨大勝利(자유당대승리)”. NAVER Newslibrary. 경향신문 (1952年2月8日). 2023年10月19日閲覧。