李守真
略歴
編集李守真の名前は大陸側の史料には見えず、『日本書紀』の以下の箇所にのみ現れる。
同年7月11日
唐人(もろこしびと)李守真(りしゅしん)等、百済の使人(つかひ)等、並(ならび)に罷(まか)り帰りぬ[2]
以上の2カ所である。半年間の滞在の間で、具体的にどのような交渉をしたのか、はっきりとしたことは分からない。なお、劉仁願は668年(総章元年)8月に、高句麗戦において、兵を逗留させたため、姚州(雲南省)に流罪にされている。そのため、この時、李守真がいつわって、派遣主として劉仁願の名前をあげた可能性が大きい。
6月4日に百済の三部(みたむら)の使人が要請した軍事についての仰せ言があった、と『書紀』にはあり[3]、2月23日、6月15日と「百済」が調(みつぎ)を献上したとの記述があるため[4]、唐が当時交戦状態にあった新羅対策として、倭(日本)に軍事的な要請をしてきたことが窺われる。
この後、同年11月には郭務悰が大船団を率いて対馬に現れている[5]。天智天皇が崩御したのは、同年の12月3日のことであった[6]。