李 錦綸(り きんりん)は中華民国の外交官・政治家。祖籍は広東省台山県(現:江門市台山市)。

李錦綸
Who's Who in China 4th ed.(1931)
プロフィール
出生: 1886年光緒12年)
死去: 1956年2月21日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク
出身地: アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク
職業: 外交官・政治家
各種表記
繁体字 李 錦綸
簡体字 李 锦纶
拼音 Lǐ Jǐnlún
ラテン字 Li Chin-lun
和名表記: り きんりん
発音転記: リー ジンルン
英語名 Frank W. Chinglun Lee
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事跡 編集

華僑の家庭に生まれ、シカゴ大学で法学士、ニューヨーク大学で法学修士をそれぞれ取得している。1911年に帰国し[1]広東省交渉署政務科科長に任ぜられた。中華民国成立後、国民党に加入したが、第二革命(二次革命)で革命派が敗北すると、一時国外へ亡命している。

1917年民国6年)、李錦綸は孫文護法運動に参加し、孫の秘書を務めた。翌年4月、広州軍政府外交部政務司司長に任ぜられ、1920年(民国9年)、粤海関監督兼広東交渉員となっている。1922年(民国11年)、私立上海滬江大学副校長兼政治学教授に転じた。

国民政府成立後の1927年(民国16年)11月、李錦綸は外交部参事に任ぜられる。翌1928年(民国17年)には、常設仲裁裁判所代表となり、10月、駐メキシコ公使となった。1929年(民国18年)10月、外交部政務次長に昇進し、1931年(民国20年)10月に各派合流・国民政府改組の間に外交部長を暫時代理している。まもなく政務次長・部長代理を辞し、翌年、在米華僑への宣慰やアメリカ政府との折衝のため渡米した。1933年5月、駐ポーランド兼駐チェコスロバキア公使に任ぜられる。翌1934年6月、駐ポルトガル公使に転じ、1943年9月までこれを務めた。その後は外交部顧問となり、アメリカで国民政府の宣伝活動に従事している。

1956年2月21日、ニューヨークにて病没。享年71。

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  1. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』563頁、劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』939頁による。『最新支那要人伝』204頁は1906年帰国としている。

参考文献 編集

  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0 
  • 『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。