杜 林(と りん、? - 47年)は、中国代から後漢時代初期にかけての政治家、学者。字は伯山司隷扶風茂陵県(現在の陝西省咸陽市興平市)の人。父は成帝哀帝の代の涼州刺史を務めた杜鄴。弟は杜成。子は杜喬。

事跡編集

姓名 杜林
時代 代 - 後漢時代
生没年 生年不詳 - 47年建武23年)
字・別号 伯山(字)
本貫・出身地等 司隷扶風茂陵県
職官 持書平〔隗囂〕→侍御史〔後漢〕

大司徒司直〔後漢〕→光禄勲〔後漢〕
→東海王傅〔後漢〕→少府〔後漢〕
→光禄勲〔後漢〕→大司空〔後漢〕

爵位・号等 -
陣営・所属等 隗囂光武帝
家族・一族 父:杜鄴 弟:杜成 子:杜喬

杜林は幼くして学を好み、落ち着いて考え深かった。博学多聞にして、万事に通じた儒者と称された。最初は郡吏を務めていたが、王莽が滅亡すると、三輔に盗賊が現れたため、杜林と杜成、同郡の范逡、孟冀は、河西[1]を目指して逃れようとした。途中、数千人の盗賊に襲われ、危うく身包みを剥がれて殺されそうになったが、孟冀の必死の嘆願で、何とか命拾いしている。

隴右[2]隗囂が、杜林の志操と節義を普段から聞き知っていたため、これを尊重して待遇し、持書平とした。後に、杜林は病気により辞職した。隗囂は自身の声望のために、杜林を無理にでも任用しようとしたが、杜林はあくまで病状が重いと称してこれを拒否した。建武6年(30年)、弟の杜成が死去したため、杜林は喪のために三輔へ帰ろうとした。隗囂は初め許したが、後にこれを悔やみ、刺客の楊賢を派して隴坻(天水郡)で待ち伏せさせ、殺害しようと図った。しかし楊賢は、弟の喪に服している杜林の姿を見ると、嘆息して任務を放棄し、逃亡した。

光武帝(劉秀)は杜林が三輔に帰還したと聞くと、ただちに侍御史として招聘した。漢の官僚たちは、杜林の徳望を敬い、京師の士大夫たちも杜林の博学ぶりを尊敬した。建武7年(31年)、朝廷で郊祀の制度について議論となり、多くの人は、周が后稷を祀ったのであるから、漢はを祀るべきであると主張し、光武帝もこれに従おうとした。しかし杜林は、周の勃興は后稷に縁るが、漢の勃興に堯は無関係であるとし、祖宗はこれまで通り(高祖劉邦以下を祀る)とすべきであると進言した。最終的には、杜林のこの言が容れられている。

後に、王良の後任として大司徒司直となり、范逡、趙秉、申屠剛牛邯など有為の人材を抜擢している。建武11年(35年)、光禄勲に任命され、やはり公平な人材登用を心がけたため、多くの者が杜林の下を訪れ、その選抜を受けようとした。建武14年(38年)、大臣たちが刑罰を厳重にするよう光武帝に奏上したが、杜林は妥当ではないと進言し、光武帝もそれに従った。

東海王劉彊の王傅を経て、少府に就任し、建武22年(46年)、光禄勲に再び任じられる。この年の冬に、大司空朱浮が罪により罷免されたため、杜林が後任の大司空に任命された。その博学と文雅により、任に堪え得る者としての評価を得た。

建武23年(47年)秋8月、死去。子の杜喬は丹水県令として任用された。

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  1. ^ 中国の北西部で、黄河が内陸を北東に流れる領域において、その西部。
  2. ^ 中国の北西部で、隴山の西部(南面して隴山の右手側にあるので隴右)。隴西県・隴西郡はあるが、隴右県や(宋時代の僅かな例を除いて)隴右郡は無いように、通称である。

参考文献編集

  • 後漢書』列伝17杜林伝
    • 同本紀1下光武帝紀下