来迎寺 (守口市)

守口市にある寺院

来迎寺(らいこうじ)は、大阪府守口市にある浄土宗寺院山号は紫雲山。本尊は天筆如来[1]

来迎寺
所在地 大阪府守口市佐太中町7丁目11-17
山号 紫雲山
宗派 浄土宗
本尊 天筆如来
創建年 正平2年(1347年
開山 西願
正式名 紫雲山 来迎寺
文化財 絹本著色八幡曼荼羅図(重要文化財
石造十三重塔 (府指定有形文化財
法人番号 2120005013768 ウィキデータを編集
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歴史

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正平2年(1347年)に、融通念仏宗(大念仏宗)の大念仏寺7世・法明上人の弟子である実尊誠阿上人西願により、河内国茨田郡下仁和寺庄守口村(現・守口市来迎町)に天筆如来を本尊とする来迎堂が建立されたのが当寺の始まりとされている[2]

天筆如来とは、石清水八幡宮を創建した僧・行教貞観元年(859年)に感得したとされる阿弥陀三尊の絵像である。実尊は当寺を建立しようとした際に兄弟弟子たちに襲われた際、摂津国八幡大神宮(不焼宮、現・大阪市旭区)に身を潜めたが、その時に天筆如来が「この上人は西方極楽世界の脇侍観世音菩薩なり」といって光り輝き、襲ってきた者たちを改心させたという。

来迎堂は後に来迎寺と名を改め、その後南朝後村上天皇勅願寺となり、釈迦如来立像の寄進を受けると本堂に「放光殿」の号を賜った。後には融通念仏宗佐太派の本山となっている[1]

当寺は延宝6年(1678年)に現在地に落ち着くまでの332年間、茨田郡内で26回の移転を繰り返している。守口市史編纂委員会の調査では、この理由を2世の時代以降に北朝方の室町幕府将軍足利義満から圧力を受けて創建当初の堂宇を維持できなくなったこと、住職相続を直檀家の内34家からなる床仲間からくじ引きで決めたこと等から、代替わり毎に相続者の居村に移転したものと結論付けている。因みに同村の者が相続した場合は移転していない[2]

江戸時代に入ると江戸をはじめとする東国で盛んに本尊・天筆如来の開帳会が行われた。宝永3年(1706年)には茲海上人が江戸幕府に呼ばれた際、来迎寺の縁起を提出し将軍徳川綱吉が目を通している。

享保3年(1743年)、35世慈天の下に女の幽霊(江戸小網町の大工の妻、「お石」という)が現れ、慈天の回向を受けて成仏したとの伝説があり、その時に「お石」が残した「幽霊の足跡」とされるものが伝わっている[3][4]

明治時代になると浄土宗に改宗している。

境内の北には佐太天神宮がある。

境内

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文化財

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重要文化財

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大阪府指定有形文化財

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その他

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所在地

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  • 大阪府守口市佐太中町7丁目11-17

アクセス

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脚注

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注釈

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出典

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  1. ^ a b 来迎寺の幽霊の足跡守口市ホームページ) 2020年7月18日閲覧
  2. ^ a b 松愛会 守口門真支部 来迎寺と幽霊の足跡
  3. ^ 大阪・来迎寺にある「幽霊の足跡」 夫への思い残す女の霊か(『女性セブン』(小学館) 2015年5月7日配信)2020年7月18日確認
  4. ^ 『江戸の幽霊、大阪まで歩いた?―守口の寺、功徳伝える足跡、「足なし」イメージ応挙から(とことん調査隊)』(日本経済新聞 2020年7月14日 大阪版夕刊) 2020年7月14日閲覧

外部リンク

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座標: 北緯34度45分51.6秒 東経135度35分27.4秒 / 北緯34.764333度 東経135.590944度 / 34.764333; 135.590944