東大寺大仏殿

東大寺大仏殿

東大寺大仏殿(とうだいじだいぶつでん)は、奈良県奈良市東大寺にある仏堂。東大寺の本尊盧舎那仏坐像(奈良の大仏)を安置している。

正式には東大寺金堂というが、「大仏殿」の名で広く知られ、東大寺の公式ホームページでも主に「大仏殿」が使用されている。この記事でも、以下「大仏殿」と表記する。

大仏殿は、1181年(治承4年)と1567年(永禄10年)の戦火で2度にわたり焼失し、現在の建物は1709年(宝永6年)に落慶したもので、日本の国宝に指定されている。

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概要編集

東大寺の伽藍の中央に位置し、境内で最大の建物である。

現存する大仏殿は、正面の幅57.5m、奥行き50.5m、棟までの高さ49.1m。奥行きと高さは創建当時とほぼ同じだが、幅は創建当時(約86m)の約3分の2になっている[1]

東大寺要録』の「大仏殿碑文」によると創建時の大仏殿の規模は、幅29(約85.8m)、奥行き17丈(約50.3m)、高さ12丈6尺(約37m)、柱数84という。

大仏殿の正面には、国宝に指定されている金銅八角燈籠がある。

世界最大の木造建築として広く知られていたが、近代には集成材や構造用合板などの建築資材の発達によりティラムーク航空博物館大館樹海ドームなど東大寺大仏殿より大きな木造建築が建造されている。木造軸組建築としては現在でも世界最大となっている。 大仏殿の内部には大仏の鼻の穴と同じ大きさと言われる穴があいた柱があり、そこをくぐることを柱くぐりと言う。そこをくぐり抜けられればその年にいいことがある、あるいは頭が良くなるなどと言われている。

歴史編集

 
1190年(南都焼討後の再建)-1567年(東大寺大仏殿の戦い)の大仏殿の模型

最初の大仏殿の建設は大仏の鋳造が終わった後に始まり、758年(天平宝字2年)に完成した。

1181年(治承4年)1月15日(旧暦12月28日)、平重衡などの南都焼討によって焼失。その後、1190年(建久元年)に再建され、1195年(建久6年)の落慶法要には源頼朝なども列席した。

1567年(永禄10年)11月10日(旧暦10月10日)から11月11日(旧暦10月11日)にかけて、東大寺大仏殿の戦いにて久秀軍による放火で焼失。『多聞院日記』には、

今夜子之初点より、大仏の陣へ多聞城から討ち入って、数度におよぶ合戦をまじえた。穀屋の兵火が法花堂へ飛火し、それから大仏殿回廊へ延焼して、丑刻には大仏殿が焼失した。猛火天にみち、さながら落雷があったようで、ほとんど一瞬になくなった。釈迦像も焼けた。

—『多聞院日記』

と記されており、穀屋から出火し、法花堂、回廊と燃え広がったのち、11月11日(旧暦10月11日)午前2時頃には大仏殿が完全に焼失したと考えられる。その後、仮の仏堂が建設されたが、1610年(慶長15年)の暴風で倒壊した。

損壊した大仏の修復と大仏殿の再建を決意した公慶上人は、1684年(貞享元年)から勧進活動を開始した。大仏の修復は、1691年(元禄4年)に完成し、翌年に開眼供養が行われた。大仏殿の再建については、公慶上人の勧進活動への幕府公許が得られ、現存する大仏殿は、1709年(宝永6年)に完成し、同年3月に落慶法要が行われた。

また、1879年(明治12年)から1915年(大正4年)までに修理が行われた。これは瓦の重量に屋根が耐えられなくなったためであり、内部に鉄のトラスを渡したうえ、瓦の重なり部分を少なくして瓦の数を減らすなどの対処が行われた。しかし雨漏りなどの問題が生じ、1973年(昭和48年)から1980年(昭和55年)に再修理が行われた。この際は現代の技術で軽量化された瓦が採用され、瓦の重なりは旧に復した。なお、1952年(昭和27年)3月29日に新国宝に指定されている。

索引編集

  1. ^ 東大寺大仏殿内に、創建当時の11間の大仏殿と、現代の大仏殿(8間)の比較対象モデルが説明文とともに展示されている

関連項目編集