本居宣長

日本の国学者 (1730-1801)

本居 宣長(もとおり のりなが、享保15年5月7日1730年6月21日) - 享和元年9月29日1801年11月5日))は、江戸時代国学者文献学言語学)、医師。名は栄貞。本姓は平氏通称は、はじめ弥四郎、のち健蔵。は芝蘭、瞬庵、春庵。自宅の鈴屋すずのや[3]にて門人を集め講義をしたことから鈴屋大人すずのやのうしと呼ばれた。また、荷田春満賀茂真淵平田篤胤とともに「国学の四大人しうし」の一人とされる[4]伊勢松坂豪商・小津家の出身である。

本居宣長
『國文学名家肖像集』所収の宣長像
人物情報
別名 通称:弥四郎、健蔵
:芝蘭、瞬庵、春庵
生誕 享保15年5月7日 (1730-06-21) 1730年6月21日
日本の旗 日本伊勢国松坂
死没 享和元年9月29日 (1801-11-05) 1801年11月5日(71歳没))
日本の旗 日本伊勢国松坂
居住 日本の旗 日本伊勢国松坂
配偶者 勝(かつ)
両親 父:小津定利
母:勝
子供 長男:春庭
次男:春村
長女:飛騨
次女:美濃
三女:能登
学問
時代 江戸時代中期 - 後期
研究分野 国学
文献学
研究機関 鈴屋
特筆すべき概念もののあはれ
漢意
主要な作品古事記伝
源氏物語玉の小櫛
玉勝間』他多数
影響を
受けた人物
堀景山
荻生徂徠
契沖
賀茂真淵
谷川士清
影響を
与えた人物
平田篤胤
伴信友
長瀬真幸
千家俊信
塙保己一ほか多数
主な受賞歴正四位[1]
従三位[2]
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概要 編集

契沖の文献考証と師・賀茂真淵の古道説を継承し[注 1]、国学の発展に多大な貢献をしたことで知られる[5]。本居宣長は、真淵の励ましを受けて『古事記』の研究に取り組み、約35年を費やして当時の『古事記』研究の集大成である注釈書『古事記伝』を著した[5]。『古事記伝』の成果は、当時の人々に衝撃的に受け入れられ、一般には正史である『日本書紀』を講読する際の副読本としての位置づけであった『古事記』が、独自の価値を持った史書としての評価を獲得していく契機となった[6]

代表作には、前述の『古事記伝』のほか、『源氏物語玉の小櫛』『玉勝間』『馭戒慨言[7]などがある。

門下生も数多く『授業門人姓名録』には、宣長自筆本に45名、他筆本には489名が記載されている。主な門人として田中道麿服部中庸石塚龍麿夏目甕麿長瀬真幸藤井高尚・高林方朗・鈴木朖小国重年・竹村尚規・横井千秋代官の村田七右衛門(橋彦)春門父子・神主の坂倉茂樹・一見直樹・倉田実樹・白子昌平・植松有信・肥後の国、山鹿の天目一神社神官帆足長秋帆足京(みさと)父子・飛騨高山の田中大秀本居春庭(宣長の実子)・本居大平(宣長の養子)などがいる。中には平田篤胤のように遺風を慕って没後に入門した者や、義門伴信友のように門人とはなっておらずとも多大な影響を受けた者も少なからずいる[8]

生涯 編集

生い立ち 編集

 
魚町の旧宅跡(国指定史跡)

享保15年(1730年)6月、伊勢国松坂(現・三重県松阪市)の木綿仲買商である小津家の次男として生まれる[注 2]。幼名は富之助。

元文2年(1737年)に寺子屋で学ぶが、元文5年(1740年)に父を亡くす[11][注 3]延享2年(1745年)、江戸大伝馬町にある叔父の店に寄宿し[注 4]、翌年に郷里へと帰る[12]。当時の江戸までの道中の地図資料のいい加減なところから、「城下船津名所遺跡其方角を改め在所を分明にし道中の行程駅をみさいに是を記す」として「山川海島悉く図する」資料集の『大日本天下四海画図』を起筆し、宝暦元年(1752年)12月上旬に書写作業完了[12]。また、この時期の見聞を元に、自分用の資料として『都考抜書』を延享3年より起筆、宝暦元年(1751年)頃まで書き継いだ[12]

寛延元年(1748年)、伊勢山田の紙商兼御師の今井田家の養子となるが、寛延3年(1750年)に離縁して松坂に帰る[12]。このころから和歌を詠み始める。

京都遊学、国学との出会い 編集

宝暦2年(1752年)、義兄が亡くなり[注 5]、小津家を継いだが、商売に関心はなく、江戸の店を整理してしまう。母と相談の上、医師を志し、京都へ遊学する[12]医学を堀元厚・武川幸順に、儒学を堀景山に師事し、寄宿して漢学や国学などを学ぶ。景山は広島藩儒医で朱子学を奉じたが、反朱子学の荻生徂徠の学にも関心を示し、また契沖の支援者でもあった。同年、姓を先祖の姓である「本居」に戻す[12]

 
京都遊学中に契沖の著作に触れた宣長は、その博捜引証を旨とした実証的な方法を高く評価している[13]

宝暦6年(1756年)頃から宣長は、日本固有の古典学を熱心に研究するようになり、景山の影響もあって荻生徂徠契沖に影響を受け、国学の道に入ることを志す[14]。また、京都での生活に感化されたことで、王朝文化への憧れを強めていく。『先代旧事本紀』と『古事記』を書店で購入したのも、この頃であるとされる[14]

帰郷、松阪の一夜 編集

宝暦7年(1757年)、京都から松坂に帰った宣長は、自宅で医師を開業するかたわら『源氏物語』の講義や『日本書紀』の研究に励んだ。この年に刊行された賀茂真淵の『冠辞考』[注 6]に触発され、国学の研究に本腰を入れることになる。

 
『冠辞考』を読んで深い感銘を受けた宣長は、賀茂真淵に弟子入りした[8][16]。なお、真淵は宣長以外にも、荒木田久老加藤千蔭楫取魚彦加藤美樹村田春海といった優秀な門人を数多く輩出している[17]

宝暦13年(1763年2月3日春庭が生まれる[18]5月25日伊勢神宮参宮のために松阪を来訪した真淵に初見し(「松阪の一夜」)、『古事記』の注釈について指導を願い、入門を希望した。その年の終わり頃に入門を許可され、翌年の正月に宣長が入門誓詞を出している。真淵は、万葉仮名に慣れるため、『万葉集』の注釈から始めるよう指導した。以後、宣長は『古事記』の本格的な研究に進む[18]。この真淵との出会いは、宣長の随筆玉勝間[19]に収められている「おのが物まなびの有りしより」と「あがたゐのうしの御さとし言」という文章に記されている[注 7]。その後、宣長は真淵と文通による指導を受け始めた。

宣長は、一時は紀伊藩に仕えた[注 8]が、生涯の大半を市井の学者として過ごした。門人も数多く、特に天明年間(1781年 - 1789年)の末頃から増加する。天明8年(1788年)末までの門人の合計は164人であるが、その後増加し、宣長が死去したときには487人に達していた[注 9]

晩年 編集

60歳の時、名古屋・京都・和歌山・大阪・美濃などの各地に旅行に出かけ、旅先で多くの人と交流し、各地にいる門人を激励するなどした。寛政5年(1793年)から散文集『玉勝間』を書き始め[20]、その中で自らの学問・思想・信念について述べているほか、方言や地理的事項について言及し、地名の考証を行い、地誌を記述している。

寛政10年(1797年)に『古事記伝』を完成させた[21]。起稿して34年後のことである。

死に臨んでは遺言として、相続その他の一般的な内容のほか、命日の定め方[注 10]、供養、墓の設計までにも及ぶ詳細で大部の「遺言書」をのこした。これについては、やまとごころにおける死生観として以前に述べていることといささか隔たりがあるとして、「謎」であるとする評論もある[要出典]

享和元年(1801年)没。71歳。山室町高峰の妙楽寺に葬られた。

没後 編集

明治38年(1905年)に従三位が追贈される。これにより旧宅保存の気運が高まり、明治42年(1909年)に鈴屋遺蹟保存会の手によって松坂城二の丸跡地に移築され、宣長当時の姿に復元された[23]。昭和28年(1953年)、本居宣長旧宅と移築前の魚町の跡地が国の特別史跡に指定された[24]

山室村の本居家の墓から本居宣長の霊魂を殿町の森に運び神仏の聖地が移転した。大正4年(1915年)に学問の神様として「本居神社」が遷座した。平成7年(1995年)に社号を「本居宣長ノ宮」と改称した[25]。その墓は昭和34年(1959年)に松阪市内を見渡す妙楽寺の小高い山へ移された。生前の宣長が好んだ場所とされる[26]。さらに平成11年(1999年)には遺言の設計に沿った「本居宣長奥津墓(城)」が建造された。

昭和45年(1970年)に宣長の業績の顕彰を目的として、宣長の旧蔵書や自筆本などを保存・公開する施設「本居宣長記念館」が開館した[27]。開館した日は宣長の命日にあたる[28]

昭和59年(1984年)に広く国学の研究を進展させる目的で、宣長の全体像を学問の軸とする「鈴屋学会」が発会した[29]学会の名称は宣長の家号「鈴屋」に由来しており[30]、学問的な関心のある人ならば誰でも参加して、宣長の顕彰を含めて宣長と関係のある“松阪”を重視することにしているため、松阪市も積極的に協力することになっており、年1回の研究大会も松阪市で開催するほか、会報を発行して研究者の情報交換を行っている[31]

ゆかりの地 編集

 
本居宣長先生修学之地
京都に遊学した際、内弟子となって儒学などを教わった師・堀景山の宅跡[32]。石碑は本居宣長翁遺跡顕彰会による建立。医術の師・武川幸順宅もこの近隣(室町通綾小路北上)にあった[33]
  • 鈴屋大人偶講学旧地(京都市下京区四条烏丸下ル、三菱東京UFJ銀行南脇)
没年の1801年享和元年)、門人に乞われて京都へ赴き、逗留2か月の間講義を行った旧地[32][33]。ビルに挟まれ、西向きに石碑が建つ。

業績 編集

歌論・物語論 編集

 
「本居宣長六十一歳自画自賛像」 寛政2年(1790年)8月
賛文「これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月に手づからうつしたるおのかかたなり、筆のついてに、しき嶋のやまとこころをひととはは朝日ににほふ山さくら花」[注 11]

宣長は『源氏物語』の中にみられる「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教え(「漢意」)を「自然に背く考えである」と非難し[注 12]中華文明を参考にして取り入れる荻生徂徠を批判したとされる[注 13]

古道論・史論 編集

 
本居宣長四十四歳自画自賛像(部分)安永2年(1773年)

宣長は儒教仏教流の「漢意」を用いて神典を解釈する従来の仏家神道儒家神道を強く批判し[注 14]、「神道は古事記などの神典を実証的・文献的に研究して明らかにするべきだ」と主張した。そして、「日本は古来より儒仏のような教えという教えがなくても、天照大御神の御孫とともに下から上まで乱れることなく治ってきた」として、「日本には言挙げをしない真の道があった」と強調した。逆に儒教や仏教は「国が乱れて治り難いのを強ちに統治するために支配者によって作為された道である」と批判し[40]天命論についても「易姓革命によって前の君主を倒して国を奪い、新しく君主になった者が自己を正当化するための作為である」と批判した[40]。さらに、朱子学理気二元論についても、「儒学者達が推測で作り上げた空論である」と批判し、「世界の事象は全て日本神話の神々によって司られているものだ」と主張した上で、「世界の仕組みを理屈で解釈することはさかしらの「からごころ」であり神々に対する不敬である」とした[40]

宣長は上述の通り現実を全て神の御仕業と捉えたため、「時々の社会体制も全て神が司っているので、人は時々の社会体制に従うべきだ」とも主張している。「漢意を重んじる誤りのある現実社会もまた、神により司られているため重んじるべきだ」とし[注 15]、今の制度を上古のようにするために変革しようとすることは「今の神の御仕業に背くこと」として批判し、自らが理想視した「古道」を規範化して現実の政治を動かそうとすることは徹底的に否定した[41]。そして、「道は上が行い下に敷き施すものであるため、上古の行いにかなうからといって世間と異なることをしたり、時々の掟に反することをすることは間違いであり、下たるものは上の掟に従って生活することこそが古道である」と主張した[42]

また、宣長は、紀州徳川家に贈られた「玉くしげ別本」の中で「定りは宜しくても、其法を守るとして、却て軽々しく人をころす事あり、よくよく慎むべし。たとひ少々法にはづるる事ありとも、ともかく情実をよく勘へて軽むる方は難なかるべし」と、その背景事情を勘案して厳しく死刑を適用しないように勧めている。

言語論 編集

 
『古事記伝』再稿本(本居宣長記念館蔵・重要文化財

日本語学の歴史上において、宣長には以下の功績が取り上げられる[43]

こうした成果は、いずれも集積された用例という客観的証拠に基づいた帰納的方法論によるものである[注 17]。これらの研究成果のうち、上代語の研究と漢字音の研究は、後に石塚龍麿が発展させて『古言清濁考』や『仮字用格奥山路』などを著した[47]。とりわけ文法研究は、鈴木朖が発展させて『活語断続譜』や『言語四種論』などを著しているほか[48]、実子の本居春庭が動詞の活用現象について『詞八衢』や『詞通路』などを著している[49]。没後には東条義門が発展させて『山口栞』や『活語指南』などを著しているほか、富樫広蔭が組織化と体系化をはかって『詞玉橋』や『辞玉襷』などを著している[50]

人物 編集

読書人・数寄人 編集

平安朝の王朝文化に深い憧れを持ち、中でも『源氏物語』を好んだ。

の蒐集家でもあり、駅鈴の複製品など珍しいものを多く所有していた。この駅鈴は、寛政7年(1795年)8月13日に浜田藩主・松平康定が宣長の源氏物語講釈を聴講するのに先立って、自筆色紙と共に贈ったものである[51]。また、自宅に「鈴屋」という屋号もつけている。19歳の頃には架空都市「端原氏城下絵図」を描いた[52]

読書家であると同時に、書物の貸し借りや読み方にこだわりがあり、「借りた本を傷めるな」「借りたらすぐ読んで早く返せ、けれど良い本は多くの人に読んで貰いたい」などの考えを記している。

「法話聞書 赤穂義士伝」では、「大石良雄はいろいろのたわけを尽くし、天下の人に後ろ指をさされ笑われた」「大石良金はめかけの子」と義士を列記して毀損が綴られている。これは佐佐木信綱により「赤穂記」の名で紹介され、宣長の手になる原本が残っている[53]。しかし、赤穂義士が精神的支柱とした朱子学を「支配者が己に都合よく作った忠義」として、さかしらの「からごころ」と批判する余り、ただの主観的な悪口になってしまっている[注 18]

史料としての日記 編集

 
エンゲルベルト・ケンペル方広寺大仏の素描(大英博物館所蔵) [54]。本居宣長は医師になるための京都遊学を終え、帰省する前に、方広寺大仏を訪問。「此仏のおほき(大き)なることは、今さらいふもさらなれど、いつ見奉りても、めおとろく(目驚く)ばかり也[55]」と日記に書き記した。後に宣長は東大寺大仏も訪問したが、方広寺大仏に比べて高さが小さく見えると日記に記述している[56]
 
北畠神社の北畠氏館跡庭園。本居家の先祖が北畠氏の家臣であったため、先祖を偲ぶため訪問したと『菅笠日記』に記されている。

医師になるための京都遊学の際の日記である『在京日記』や、吉野や飛鳥を歴訪した際の日記である『菅笠日記』など、宣長は膨大な量の日記を残した。それらについて、江戸時代の庶民の生活や町の様子、催されていた行事など、当時をうかがい知れる歴史史料として史料価値が高い[57]。また京都の方広寺大仏(京の大仏)など今日現存しない建造物についての言及や[56]、明和7年(1770年)7月28日夜に日本各地で観測されたオーロラへの言及などもあり[58]、歴史学以外の他の分野からも注目される記述がある。

医療活動 編集

家業を手伝うも、読書に熱中し商売に適していないと、母に相談して医業を学んだ。地元・松坂では医師として40年以上にわたって活動した。初め加賀藩から仕官の交渉があったが、遠国であり、老身であるため、仕官を好まず、『記伝』の執筆中もあって断った。この噂を聞いた紀州藩が対抗的に招き、寛政4年(1792年)、紀州藩に仕官し、御針医格十人扶持となった[59]

宣長は昼間は医師としての仕事に専念し、自身の研究や門人への教授は主に夜に行った。宣長は『済世録』と呼ばれる日誌を付けて、毎日の患者や処方した薬の数、薬礼の金額などを記しており、当時の医師の経営の実態を知ることが出来る。亡くなる10日前まで患者の治療にあたったことが記録されている。内科全般を手がけていたが、小児科医としても著名であった。当時の医師は薬(家伝薬)の調剤・販売を手掛けている例も少なくなかったが、宣長も小児用の薬製造を手掛けて成功し、家計の足しとした[60]。また、「乳児の病気の原因は母親にある」として、付き添いの母親を必要以上に診察した逸話がある。

しかしながら、あくまでその意識は「医師は、男子本懐の仕事ではない」と子孫に残した言葉に表れている[61]

上田秋成との論争 編集

日本書紀を「漢意のふみ」とし、大陸の強い影響などを糾弾していた[62]

宣長は天明6年(1786年)から翌年頃まで上田秋成と二度にわたって論争した[63]。その結果を、宣長は「呵刈葭(かがいか、あしかりよし)」前後編の著作で、秋成は「安々言(やすみごと)」という形で著した。前編「上田秋成論難同弁」は、主として音便などの言語上の問題についての論争であり、後編「鉗狂人上田秋成評同弁」は「日の神論争」ともいわれ日本神話の解釈をめぐる論争である[64]

信仰と恋愛 編集

大和国吉野水分神吉野水分神社)が子守明神として、子を与え、守る神と世間で信じられていたため、宣長の父は男子が得られるよう祈り、宣長が生まれたため、宣長自身は「水分神の申し子」として生まれたと堅く信じていた[65]

儒仏に対する排除を主張していた宣長だが、10代頃は浄土教思想の強い影響下にあり[66]、『直毘霊』成立前後から排除思想が強くなった[67]

宣長の生涯にわたる恋愛生活は、大野晋などが明らかにしている。

作品 編集

 
本居宣長の歌碑(猿田彦神社・三重県伊勢市
  • 『本居宣長全集』は筑摩版の他に、大正期に吉川弘文館(全12冊)、戦中期に岩波書店(6冊、未完)が刊行。

刊行著作 編集

  • 『本居宣長全集』筑摩書房(全20巻別巻3)、大野晋大久保正編、1968-1977年
  • 『本居宣長 日本思想大系40』 吉川幸次郎、佐竹昭広日野龍夫校注、岩波書店、1978年
  • 『本居宣長集 新潮日本古典集成日野龍夫校注、新潮社、1983年、新装版2018年
    • 「紫文要領」「石上私淑言」を収録
  • 今西祐一郎校注 『古今集遠鏡』平凡社東洋文庫 全2巻、2008年
  • 白石良夫訳注 『本居宣長 「うひ山ぶみ」全訳注』講談社学術文庫、2009年
  • 村岡典嗣校訂 『うひ山ふみ 鈴屋問答録』、『玉くしげ・秘本玉くしげ』
    • 『玉勝間』(上・下)、『直毘靈』、各・岩波文庫(初刊) 1934-36年
  • 『排蘆小船 宣長「物のあはれ」歌論』 子安宣邦校注、岩波文庫 2003年
  • 『紫文要領』 子安宣邦校注、岩波文庫 2010年
  • 『宣長選集』野口武彦編・校注、筑摩叢書 1986年。「玉くしげ」など
  • 『現代語訳 本居宣長選集』山口志義夫訳、多摩通信社、新書判
    • 1.『玉くしげ - 美しい国のための提言』(玉くしげ、玉くしげ別巻、直毘霊)2007年
    • 2.『馭戎慨言 - 日本外交史』2009年
    • 3.『うい山ぶみ - 皇朝学入門』(うい山ぶみ、答問録、講後談)2010年
    • 4.『源氏物語玉の小櫛 - 物のあわれ論』(源氏物語玉の小櫛、第一巻、第二巻)2013年
  • 『本居宣長 コレクション日本歌人選058』山下久夫編、和歌文学会監修、笠間書院 2012年

著作 編集

国学
評論
  • 『排蘆小船(あしわけおぶね)』[69]
語学
随筆・歌論
経済
歴史
家集(和歌集)
  • 『大日本天下四海画図』考證の為の自筆稿本(資料集)
「日本の絵図世に多いといっても、諸国の城下其外名所旧跡悉く在所が相違している。又行程の宿場や馬借の駅が微細でない。そのため自分は今この絵図を描くにあたり、城下町や船着場、名所遺跡の方角を正確に記し、在所を分明にして道中の行程や駅を微細に記し山川海島を悉くを描く。ならびに六十六洲の諸郡を顕して、又知行や高田数を書いて、大坂を起点とした諸方への道法を東西に分てこれを記す、異国の道のりも略顕した。延享三年五月吉日」[注 19]
  • 『都考抜書(とこうばっしょ)』考證の為の自筆稿本(資料集)
  • 『鈴屋集』

本居家 編集

宣長以後、本居家は家督を継いだ養子大平の系譜に連なる和歌山[要曖昧さ回避]の本居家と、実子春庭の系譜に連なる松坂の本居家に分かれる。

和歌山本居家歴代当主 編集

  • 1本居宣長
  • 2本居大平(1756-1833):本居宣長養子。
    • (本居建正)(1788-1819):本居大平長男。32歳で早逝する。
    • (本居清島)(1789-1821):本居大平次男。33歳で早逝する。
  • 3本居内遠(1792-1855):本居大平養子。学識は宣長に次ぐといわれる。
    • (本居永平)(1819-1842):本居大平四男。後嗣となるが、24歳で早逝する。
  • 4本居豊穎(1834-1913):本居内遠長男。近代を代表する国学者
    • 松野勇雄)(1852-1893):明治10年(1878年)に本居豊穎の養子となるが、明治12年(1880年)7月に離縁。
    • (増田于信)(1862-没年不詳):明治17年(1884年)に本居豊穎の養子となるが、まもなく離縁。
  • 5本居並子(1843-1886):本居豊穎長女。
  • 6本居長世(1885-1945):本居並子次男(増田于信長男)。作曲家童謡の先駆者。
  • 7本居雷章菱山修三)(1909-1967):本居長世養子。詩人。

松坂本居家歴代当主 編集

  • 1本居宣長
  • 2本居春庭(1763-1828):本居宣長長男。32歳で失明。
  • 3本居有郷(1804-1852):本居春庭長男。
  • 4本居信郷(1825-1900):本居有郷養子。本居宣長曾孫。
  • 5本居清造(1873-1958):本居信郷次男。本居豊穎から学統を継承する。
  • 6本居弥生(1903-1983):本居清造長男。
  • 7本居芳野(1942-):東京都在住。
本居宣長記念館の記述に従う。()は一時期、後継者となったが、当主には就かなかった人物。

脚注 編集

注釈 編集

  1. ^ 師・真淵との関係では「後によき考への出できたらんには、必ずしも師の説にたがふとて、なはばかりそ」と言い、師の教えを仰ぎながらも良いと適ったことは遠慮なく主張したという。
  2. ^ 父は小津三四右衛門定利[9]。兄の宗五郎定治は養子[10]。宣長は実子としては長男だった。
  3. ^ 江戸店にて病死、享年46歳[9]
  4. ^ 商売見習いのためであったと考えられる[12]
  5. ^ 江戸神田紺屋町宅にて没、享年40歳[10]
  6. ^ 『万葉集』に出てくる枕詞について詳細な解釈、精密な考察を施した書[15]
  7. ^ この2つの文章から再構成された宣長と真淵との出会いは、「松阪の一夜」として戦前期の『小学国語読本』に掲載された。
  8. ^ 寛政4年(1792年)に五人扶持
  9. ^ 伊勢国の門人が200人と多く、尾張国やその他の地方にも存在していた。職業では町人が約34%、農民約23%、その他となっていた。
  10. ^ 天文学的な、0時(当時の表現で「九つ(ここのつ)」)を日付の境とする考え方は、まだ一般的には普及しておらず、日の出を境とする意識が(当時のインテリである宣長にはともかく、残される他の者には)多かったということだろうが、そういったことまで詳細に述べている[22]
  11. ^ 宣長にとってこの歌は自身の心とも言える特別なものだったらしく、自選歌集『鈴屋集』には載せず、人から乞われた時のみ染筆している[34]
  12. ^ 儒教を体系化した孔子その人には好意的であり、「聖人と人はいへども聖人のたぐひならめや孔子はよき人」という歌を詠んでいる[35]
  13. ^ 一方で、徂徠の学問の方法論である古文辞学からは、堀景山を介して多大な影響を受けていることも指摘されている[36]
  14. ^ 宣長は明和2年(1765年)に、「神典解釈が儒意を離れていない」と指摘した長文の漢文書簡を谷川士清に差し出している[37]。これに対して士清は、学風こそ譲らなかったが、宣長の優れた学才を認め、これを機に互いの著述や原稿を見せ合って活発に議論したほか、互いの蔵書を貸借するなど、書簡を通して交流を深めた[38]。なお、宣長は京都遊学中に、士清の『日本書紀通証』の諸説を抄録しているほか[37]、同書巻1の附録「和語通音」を写し取っている[39]
  15. ^ 実際、宣長は『玉鉾百首」で「東照るかみのみことの安国としづめましける御代はよろづ代」という歌を詠み、徳川幕藩体制を賞賛している。
  16. ^ 『古事記』『風土記』『和名抄』などから地名の字音の転用例を200近く集め、それを分類整理している[44]
  17. ^ 宣長以前は必ずしも当然の方法論ではなかった[45]。また、この方法論は宣長の独創ではなく、契沖などから学ぶところが大きいが、表記研究のみならず文法研究などにも拡大したところが重要である[46]
  18. ^ なお前述の、宣長と昵懇だった松平康定は、義士の泉岳寺引き上げを妨害した浜田藩主・松平康宦の養曽孫にあたる[要出典]
  19. ^ 大日本天下四海画図より現代語訳

脚注 編集

  1. ^ 1883年(明治16年)に贈位山室山神社 -本居宣長記念館
  2. ^ 『官報』第6718号「叙任及辞令」1905年11月20日。
  3. ^ 大久保正 「本居宣長」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 1815)
  4. ^ 国学の四大人(こくがくのしたいじん)の意味”. goo国語辞書. 2020年7月22日閲覧。
  5. ^ a b 日本史用語研究会『必携日本史用語』(四訂版)実教出版(原著2009-2-2)。ISBN 9784407316599 
  6. ^ 千葉真也「古事記伝」(本居宣長記念館 2001, pp. 28–29)
  7. ^ 杉戸清彬 「馭戎慨言」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 506)
  8. ^ a b 矢田勉 (2016), p. 52.
  9. ^ a b 鈴木香織「小津定利」(本居宣長記念館 2001, pp. 104–105)
  10. ^ a b 鈴木香織「小津宗五郎」(本居宣長記念館 2001, pp. 105–106)
  11. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 1.
  12. ^ a b c d e f g 本居宣長記念館 (2018), p. 2.
  13. ^ 乾善彦「契沖」(本居宣長記念館 2001, p. 122)
  14. ^ a b 本居宣長記念館 (2018), p. 3.
  15. ^ 寺田泰政「冠辞考」(本居宣長記念館 2001, p. 15)
  16. ^ 内田宗一 (2016), p. 43.
  17. ^ 内田宗一 (2016), p. 42.
  18. ^ a b 本居宣長記念館 (2018), p. 4.
  19. ^ 杉戸清彬 「玉勝間」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, pp. 1189–1190)
  20. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 12.
  21. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 15.
  22. ^ 『こよみと天文・今昔』 p. 93
  23. ^ 本居宣長記念館 (2022), p. 4.
  24. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 40.
  25. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 32.
  26. ^ 本居宣長記念館 (2022), p. 108.
  27. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 44.
  28. ^ 田中康二 (2012), p. 224.
  29. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 48.
  30. ^ 岩田隆「「鈴屋学会」のこと 松阪に「宣長」敬愛深く」『中部読売新聞』、昭和60年5月17日付、17面。
  31. ^ 「「鈴屋学会」が発足 本居宣長を総合的に研究 「宣長学」の確立目指さうと」『神社新報』、昭和60年1月28日付、3面。
  32. ^ a b 石田孝喜 (2001), p. 250.
  33. ^ a b 杉立義一 (1984), pp. 296–297.
  34. ^ 『心力をつくして ─本居宣長の生涯─』pp.70-72
  35. ^ 吉田悦之「孔子」(本居宣長記念館 2001, p. 124)
  36. ^ 高橋俊和「古文辞学」(本居宣長記念館 2001, p. 217)
  37. ^ a b 城福勇 (1980), p. 221(新装版第二刷1990年)
  38. ^ 平井吾門 (2016), p. 46.
  39. ^ 足立巻一 (1983), p. 170.
  40. ^ a b c 村岡典嗣『直毘霊・玉鉾百首』岩波書店,1936
  41. ^ 丸山真男『日本政治思想視研究』東京大学出版会,1952
  42. ^ 白石良夫『うひ山ぶみ』講談社学術文庫,2009
  43. ^ 矢田勉 (2016), p. 53.
  44. ^ 竹田純太郎「地名字音転用例」(本居宣長記念館 2001, p. 54)
  45. ^ 矢田勉 (2016), p. 54.
  46. ^ 矢田勉 (2016), p. 55.
  47. ^ 安田尚道 (2023), pp. 276–278(初出:安田尚道 2016
  48. ^ 坪井美樹 (2016), pp. 69–70.
  49. ^ 中村朱美 (2016), pp. 62–63.
  50. ^ 仁田義雄 (2021), pp. 134–135.
  51. ^ 『新版 本居宣長の世界』 p.89。
  52. ^ 「端原氏城下絵図」(はしはらし じょうか えず)
  53. ^ 『本居宣長全集』第二十巻(筑摩書房)
  54. ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社、1994年 p.95
  55. ^ 『本居宣長全集 第16巻』1974年出版 在京日記 宝暦七年の条 p.106
  56. ^ a b http://www.norinagakinenkan.com/tenji/10haru/10haru07.html
  57. ^ 出村嘉史 他 『本居宣長「在京日記」にみる行楽地としての東山景域の構成』2007年
  58. ^ https://www.norinagakinenkan.com/kongetu7.html
  59. ^ 城福勇 (1980), pp. 187–188(新装版第二刷1990年)
  60. ^ 青柳精一 (1996), pp. 160–163.
  61. ^ 布施昌一「医師の歴史」中央公論 1979
  62. ^ 『日本書紀の誕生: 編纂と受容の歴史』(八木書店) - 編集:遠藤 慶太,河内 春人,関根 淳,細井 浩志 - 河内 春人による本文抜粋”. ALL REVIEWS (2020年11月18日). 2021年1月3日閲覧。
  63. ^ 本居宣長記念館 (2018), p. 10.
  64. ^ 『本居宣長全集』第八巻(同)
  65. ^ 城福勇 (1980), p. 6(新装版第二刷1990年)
  66. ^ 城福勇 (1980), pp. 25–26(新装版第二刷1990年)
  67. ^ 城福勇 (1980), p. 108(新装版第二刷1990年)
  68. ^ 大久保正 「直毘霊」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 1345)
  69. ^ 岩田隆 「排蘆小船」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 29)
  70. ^ 山口明穂 「てにをは紐鏡」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 1282)
  71. ^ 鈴木真喜男 「字音仮字用格」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 844)
  72. ^ 永野賢 「詞の玉緒」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 733)
  73. ^ 大久保正 「秘本玉くしげ」 (日本古典文学大辞典編集委員会 1986, p. 1527)

参考文献 編集

書籍
論文
  • 矢田勉「本居宣長」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年、52-55頁。 
  • 内田宗一「賀茂真淵」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年、40-43頁。 
  • 平井吾門「谷川士清」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年、44-47頁。 
  • 中村朱美「本居春庭」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年、60-63頁。 
  • 安田尚道「石塚龍麿」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年、64-67頁。 
  • 坪井美樹「鈴木朖」『日本語学』第35巻第4号、明治書院、2016年、68-71頁。 
  • 足立巻一「谷川士清の好古」『歴史と人物』第13巻第8号、中央公論新社、1983年、166-173頁。 

関連文献 編集

伝記 編集

研究 編集

関連項目 編集

関連人物 編集

同時代人 編集

外部リンク 編集