松平 定剛(まつだいら さだよし)は、江戸時代中期から後期にかけての大名伊予国今治藩7代藩主。定房系久松松平家7代。官位従五位下壱岐守

 
松平定剛
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 明和8年6月30日1771年8月10日
死没 天保14年1月16日1843年2月14日
改名 千代松、吉十郎(幼名)、定剛
戒名 興徳院
墓所 東京都江東区白河霊巌寺
官位 従五位下壱岐守
幕府 江戸幕府 奏者番
主君 徳川家斉
伊予今治藩
氏族 久松松平家定勝
父母 松平定休
兄弟 定剛、金之丞、定規定亨跡部良貞
池田政行、筍次郎、弓気多正明
釿次郎、衛、浜、熊、銀、歌、勝、村、民、錦、鋭
土岐定経娘磯
定芝高力直行大嶋義彬、松平某室、
斉藤利伊正室、近藤徳用正室、
酒井忠堅正室、石川正保正室、堀親孝室ら
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生涯編集

明和8年(1771年)6月30日、6代藩主・松平定休の長男として誕生。天明6年(1786年)12月に従五位下、壱岐守に叙任する。寛政2年(1790年)4月5日、父の隠居により跡を継いだ。藩政においては文化5年(1808年)から文政7年(1824年)まで奏者番を務め、農業生産の安定化、地域格差の撤廃などに尽力した。文化14年(1817年)5月には藩校克明館を創設し、文武の奨励と士風の綱紀粛正、領民への教育普及などを図った。瀬戸浜塩田の着工なども行なっている。

文政7年(1824年)6月5日、長男・定芝に家督を譲って隠居する。天保14年(1843年)1月16日に死去、享年73。

系譜編集