松平康荘

日本の江戸時代末期(幕末)~昭和時代前期の侯爵・政治家・収集家。越前福井藩17代藩主(後に侯爵)松平茂昭次男で、越前松平氏(旧福井藩主家)18代当主。従二位

松平 康荘(まつだいら やすたか、慶応3年2月6日1867年3月11日) - 昭和5年(1930年11月17日)は、明治から昭和期の日本華族。旧福井藩主家(越前松平家)第18代当主、侯爵

松平 康荘
まつだいら やすたか
松平康荘
生年月日 (1867-03-11) 1867年3月11日
没年月日 (1930-11-17) 1930年11月17日(63歳没)
出身校 慶應義塾
サイレンセスター王立農学校
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明治末期

略歴

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福井藩主松平茂昭の次男として生まれる。母は、中臈八重(?-1871)。幼名は信次郎(のぶじろう[1])。1884年(明治17年)1月24日、元服し、従五位に叙任する。慶應義塾に学ぶ。1月28日、政府からドイツ留学を許可される。同年2月16日、ドイツに向けて出発する。1887年(明治20年)3月11日、イギリス留学に変更することを許可され、サイレンセスター王立農学校 (Royal Agricultural Collegeに学ぶ。1890年(明治23年)7月26日、父の危篤により、帰国する。同年8月1日、家督を相続する。同年10月11日、イギリスに戻り、農芸を専攻して帰国後、福井城内に農事試験場(松平農試場)を設け、果樹・園芸に専念した。1892年(明治25年)1月29日、貴族院侯爵議員に就任[2]大日本農会会頭、帝国農会会長。日英博覧会 (1910年)にて『The Culture of Kaki』を出品している。

三田平凡寺と交流し、我楽多宗に参加、北越山文殊寺と号した趣味人でもあった。

栄典・授章・授賞

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位階
勲章等

系譜・家族

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父母
  • 父:松平茂昭(福井藩第17代藩主)
  • 母:八重(小出新弥妹)[8]
兄弟姉妹
子女

当初、慶民を養子に迎えたが、のちに実子康昌が生まれた。侯爵家は康昌が継承し、慶民は分家して子爵家を立てた。

出典

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  1. ^ 「越前世譜 茂昭様御代」15(慶応3年、松平文庫、福井県文書館保管)では、「此訓能武」とある。
  2. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、5頁。
  3. ^ 『官報』第170号「叙任」1884年01月25日。
  4. ^ 『官報』第3893号「叙任及辞令」1896年6月22日。
  5. ^ 『官報』第1183号「叙任及辞令」1916年7月11日。
  6. ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
  7. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  8. ^ 「越前松平家系図」『福井市史』資料編4 近世2、p.38。

参考文献

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関連項目

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  • ニホンオオカミ(前述の城内農事試験場内にて発見されたイヌ科の動物が、日本最後のニホンオオカミの個体であるとする説がある。)


日本の爵位
先代
松平茂昭
侯爵
福井松平家第2代
1890年 - 1930年
次代
松平康昌