松平忠清

戦国武将、江戸時代初期の大名

松平 忠清(まつだいら ただきよ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。通称は與次郎。玄蕃頭、民部大輔。三河国吉田藩の第2代藩主竹谷松平家7代当主。

 
松平忠清
松平忠清像(天桂院蔵)
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 天正13年(1585年
死没 慶長17年4月20日1612年5月20日
改名 万之助(幼名)→忠清
別名 通称:與次郎。玄蕃頭、民部大輔
戒名 忠功院機叟勝全
墓所 蒲郡市の天桂院
幕府 江戸幕府
主君 徳川家康秀忠
三河吉田藩
氏族 竹谷松平家
父母 父:松平家清、母:久松俊勝の娘・天桂院
兄弟 忠清清昌
正室亀井茲矩の娘
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生涯

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初代藩主・松平家清の長男として誕生。母は久松俊勝の娘・天桂院(徳川家康の異父妹)。幼名は万之助。

慶長15年(1610年)、父の急死により家督を継ぐ。

翌慶長16年(1611年)4月、参内を済ませた家康が居城の駿府への帰路で、途中で海路を選択した。家康を乗せた船は同月23日に尾州熱田から出航したが、強風で船が進まなかったために外洋へは出なかった。同月25日に三河湾の牟呂(現・豊橋市牟呂)の海岸へ漂着した。家康一行は休息目的で、近くの吉田城へ立ち寄った。おかげで忠清の家中は火急の応対に追われたと伝わる。慶長17年(1612年)正月13日に家康は再び三河に入り、吉田城に寄った。この回は駿府から幡豆郡吉良への鷹狩りの旅程で、吉田城に宿泊した。この時、忠清へ宿賃ともいうべき銀100枚が下された。鷹狩り旅行の帰途の2月3日にも、宿泊に立ち寄っている。

それから僅か2ヶ月余後の4月20日、忠清は急病を患いそのまま死去した。享年28。嫡子を定めていなかったため、吉田藩は無嗣除封となった。

ただし、竹谷松平家のそれまでの貢献度に鑑みた幕府は、忠清の異母弟の清昌に三河宝飯郡西ノ郡に5000石を改めて与え、交代寄合として存続させた。