柏山 吾郎(かしわやま ごろう、1879年12月8日 - 1933年1月8日)は、山形県西村山郡(現:山形県河北町谷地新町)出身で伊勢ノ海部屋に所属した大相撲力士。本名は斎藤 定五郎(さいとう さだごろう(ていごろう))。最高位は西前頭7枚目。

柏山 吾郎
基礎情報
四股名 柏山 吾郎
本名 斎藤 定五郎
愛称 首繋ぎの神様
生年月日 1879年12月8日
没年月日 (1933-01-08) 1933年1月8日(53歳没)
出身 山形県西村山郡(現:山形県河北町谷地新町
身長 164cm
体重 90kg
所属部屋 伊勢ノ海部屋
得意技 右四つ、上突っ張り
成績
現在の番付 引退
最高位 西前頭7枚目
生涯戦歴 20勝32敗4分2預21休(11場所)
幕内戦歴 7勝20敗2分21休(5場所)
データ
初土俵 1899年1月場所(序ノ口)
入幕 1908年5月場所
引退 1913年1月場所
備考
2013年7月28日現在

来歴

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1879年12月8日山形県西村山郡(現:山形県河北町谷地新町)で生まれる。幼い頃から体格が良かったことから伊勢ノ海部屋へ入門、1899年1月場所で序ノ口から初土俵を踏んだ。順調に出世していき、1907年1月場所で新十両昇進、1908年5月場所で新入幕を果たした。

小兵ながら完全な正攻法の取り口で入幕を果たしたが、当時の幕内は常陸山谷右エ門梅ヶ谷藤太郎(2代)が全盛期の時代で、自身も得意ながら相手から強烈な突っ張りを受けて勝ち越すことが出来ず、苦戦していた。

1913年1月場所を最後に現役を引退し、年寄・山科を襲名して日本相撲協会の理事としても活躍しながら、山科部屋を経営した。出羽海とは碁敵としてほぼ毎日のように出羽海部屋を訪れ、碁を打ちながら春秋園事件で相談役にさせられた出羽海の愚痴・苦情を聞いたり、出羽海から破門を受けた若い力士を取り成すなど「首繋ぎの神様」と呼ばれ、人望も厚かった。

1933年1月8日に死去、53歳没。 [1]

主な成績

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  • 通算成績:20勝32敗4分2預21休 勝率.385
  • 通算幕内成績:7勝20敗2分21休 勝率.259
  • 通算在位:11場所
  • 幕内在位:5場所

関連項目

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出典 

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  1. ^ 大相撲力士名鑑平成13年版、水野尚文、京須利敏、共同通信社、2000年、ISBN 978-4764104709