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桑野城(くわのじょう)は、徳島県阿南市桑野町岡元にあった日本の城。現在の萬福寺にあった。

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桑野城
徳島県
別名 栗栖城
城郭構造 平山城
築城主 東条信綱
築城年 天文年間
主な城主 東条氏
廃城年 天正13年(1585年)頃?
遺構 なし
指定文化財 未指定
位置
地図
桑野城の位置(徳島県内)
桑野城
桑野城

概要編集

桑野駅から東に向かってすぐのところにある。遺構は何もない。

歴史編集

城主・東条氏は甲斐武田氏の流れをくみ、東条信綱は甲斐守を名乗り天文年間に桑野に来住し、8つの村を領有した。

信綱の跡を継いだ関之兵衛は勢力を拡大し新開道善と戦いこの辺りの主導権争いをした。畿内の永正の錯乱などに参戦し、阿波の有力武将だったことが考えられる。

天正3年(1575年)頃に長宗我部元親が阿波に侵入したとき城主東条関之兵衛は元親に帰属し、元親は養女を関之兵衛に与えて身内とした。桑野城は阿波侵攻の拠点の1つとなった。

天正5年(1577年)の夏、三好方の矢野駿河守篠原自遁らは3千兵を率いて桑野城を攻撃した。しかし、長宗我部方についた一宮成助は長宗我部の兵とともに三好方の後方を脅かしたために、篠原自遁は早々と逃げ去り、矢野駿河守も追ってきた土佐勢と勝浦川近くで戦い、丈六寺に逃げ込もうとした三好方を長宗我部方は200人余り討ち取った。矢野駿河守は船に乗って津田(徳島市)へ渡り、勝瑞へ帰った。

関之兵衛はのち西方城城主となり、天正10年(1582年)に中富川の合戦に牛岐右京進、仁宇但馬守、四宮肥後守らとともに長宗我部方で参戦し、戦功をたてた。阿波平定以後、木津城城主となった。

天正13年(1585年)、豊臣秀吉四国攻めの際に関之兵衛の叔父東条紀伊守が降伏しており、関之兵衛と家来の子5人を人質に渡して木津城を開城。関之兵衛は土佐へ逃亡。この頃に桑野城も廃城になったと思われる。

なお、関之兵衛は舎弟の東条唯右衛門とともに元親によって処刑された。

参考文献編集

関連項目編集