梁 師都(りょう しと)は、隋末唐初に割拠した群雄の一人。

大度毗伽可汗 梁師都
皇帝
王朝
在位期間 617年 - 628年
都城 朔方
姓・諱 梁師都
諡号 大度毗伽可汗、解事天子
生年 不詳
没年 永隆12年(628年
年号 永隆 : 617年 - 628年

生涯 編集

夏州朔方県の豪族の家に生まれた。隋に仕えて鷹揚府郎将となった。大業末年、辞任して帰郷し、数十人の人々と結んで隋に反抗し、朔方郡丞の唐世宗を殺し、郡に拠って大丞相を称し、北の突厥と同盟した。隋の張世隆の攻撃を撃退し、雕陰弘化延安を攻略した。梁国を建てて、皇帝を称し、永隆と元号を立てた。突厥の始畢可汗より大度毗伽可汗・解事天子の号を受け、突厥の兵を率いてオルドスの地に盤踞し、塩川郡を抜いた。

永隆3年(619年)、霊州を攻撃した。突厥の千騎とともに野猪嶺に野営していたところ、唐の延州総管段徳操が進軍してきた。段徳操の兵は寡兵で戦おうとしなかったので、師都の兵の士気はゆるんできた。段徳操は副総管の梁礼を向かわせて師都と戦わせ、戦いが長期化してきたころ、段徳操は自ら軽騎を率い、多くの旗幟をひるがえらせて攻撃すると、師都の軍は総崩れとなり、多くの死者を出した。しばらくして師都は五千の兵で侵入したが、段徳操はまた師都の軍を撃破した。

永隆4年(620年)、劉武周が唐に敗れた後、師都の部将の張挙・劉旻は唐に降った。師都は尚書の陸季覧を突厥の処羅可汗の元に送り、「隋が滅び、中国は四分五裂して、群小はみな争って突厥につきました。しかし今唐が劉武周を滅ぼし、国は強大化しています。師都は旦夕のうちにも滅び、次にはまた可汗にも及びましょう。可汗には北魏孝文帝の故事のように、兵を南にお出しになり、師都を道案内とするようお願いします」と説かせた。処羅可汗はこれを聞き入れ、莫賀咄設を五原に入らせ、泥歩設と師都を延州に向かわせて、処羅可汗自身は太原を攻め、突利可汗・霫・契丹靺鞨には幽州道で合流させ、竇建徳には滏口から晋州・絳州で合流させることとした。しかしときに処羅可汗が亡くなり、突厥の兵は出されることなく、師都はまた段徳操に破れた。

永隆8年(624年)、師都の部将の賀遂索周が十二州をもって唐に降った。段徳操が師都を攻めたて、東城を抜いたが、師都は西城を守って出戦しようとしなかった。突厥の頡利可汗に救援を求め、頡利可汗は一万の騎兵を率いて南下した。ときに、稽胡の劉仚成が師都についたが、師都は讒言を信じて彼を殺したので、その配下は恐れて多くが叛き去った。師都の勢力は日に日に逼塞し、ついに頡利可汗に臣従して、南方経略の方法を教唆したので、唐の北辺は連年突厥の侵入を受け、頡利可汗は渭橋にいたって太宗と対峙した。

のちに突厥の内部が分裂すると、太宗は使者を送って師都の帰順を促したが、師都は聞き入れなかった。唐の夏州長史の劉旻や司馬の劉蘭成が師都を攻撃した。師都の配下は離反し、糧道は絶たれて城中は飢えた。師都の部将の辛獠児李正宝馮端らが師都を捕らえて降ろうとしたが、失敗して、李正宝のみが単身唐に帰順した。

永隆12年(628年)、唐の柴紹薛万均の軍が頡利可汗の援軍を撃破し、師都の城下に進軍すると、従弟(叔父の子)の梁洛仁が師都を斬って唐に降った。梁洛仁は右驍衛将軍に抜擢され、朔方郡公に封ぜられた。朔方郡は唐に編入されて夏州と改められた。

伝記資料 編集

  • 旧唐書』巻五十六 列伝第六「梁師都伝」
  • 新唐書』巻八十七 列伝第十二「梁師都伝」