榊原 忠政(さかきばら ただまさ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。徳川家康の家臣。

 
榊原忠政
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文10年(1541年
死没 慶長6年4月3日1601年5月5日
別名 平七郎、弥平兵衛、隼之助、摂津守
戒名 定禅
墓所 増上寺
氏族 榊原氏
父母 榊原忠次島田利秀の娘
兄弟 忠直忠政
小浦正高の娘
忠勝忠真大久保忠時
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生涯

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家伝によれば父忠次松平広忠の重臣で、忠政が生まれる前に戦没している。天文16年(1547年)幼少の徳川家康に附属して尾張駿府へと従う。永禄3年(1560年桶狭間の戦いで活躍。永禄6年(1563年)明大寺村における三河一向一揆との合戦では、肩を射られながらも3人を討ち取るという武功を立てた。一宮砦後詰めでも殿軍となって奮戦。長沢の戦いでは先駆けの功を賞されて「隼之助」の名を与えられる。東条城攻撃でも一番槍を武功があった。永禄12年(1569年掛川城の戦いでは軍奉行を務める。元亀元年(1570年姉川の戦いでの武功により遠江浜名郡に70貫文を恩賞として与えられる。元亀3年(1572年三方ヶ原の戦いで兄忠直が戦死したため、その家督を継承。以後も長篠の戦いを始め武田氏との戦いに従軍した。天正12年(1584年小牧・長久手の戦いで活躍。天正14年(1586年朝日姫の入輿では出迎え役を務める。天正17年(1589年)からは徳川秀忠に附属し、代々の官途名「摂津守」を名乗る。天正18年(1590年徳川氏の関東移封に際し、相模大住郡に2300石を与えられた。

出典

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