槇村正直

日本の政治家
槙村正直から転送)

槇村 正直(まきむら まさなお、天保5年5月23日1834年6月29日) - 明治29年(1896年4月21日)は、日本官僚政治家貴族院議員、男爵。幼名・半九郎。

槇村 正直
生年月日 1834年6月29日
没年月日 (1896-04-21) 1896年4月21日(61歳没)
前職 長州藩士
称号 従二位勲一等瑞宝章男爵
配偶者 槇村千賀

在任期間 1875年7月 - 1881年1月

在任期間 1881年1月29日 - 1890年6月30日

在任期間 1890年7月10日 - 1896年4月21日
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経歴

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長州藩郷士・丹藤左衛門正純の二男として生まれ、21歳で槇村満久の養子となる[1]。藩右筆役を経て明治元年(1868年)、議政官史官試補となる[1]。同年、京都府に出仕。

大参事、大参事、参事などを歴任[1]小野組転籍事件を起こし明治6年(1873年)10月に勾留され、同年12月31日に罰金30円の判決を受けた。

明治8年(1875年)7月に京都府知事となり、東京奠都により人口が減少し、荒廃した京都の復興に尽力した[1]

明治13年(1880年)5月、京都府会の同意を得ず地租追徴を決定する。山本覚馬が議長を務める府会は反発すると、槇村は追徴を撤回し府会に追徴議案を提出し、議案は可決する。

明治14年(1881年)1月、元老院議官となる[1]。明治20年(1887年)5月24日、男爵を授爵し華族となる[2]。明治23年(1890年)2月から行政裁判所長官となり、また同年7月に貴族院議員(男爵議員)となり、ともに死去するまで務めた。

明治28年(1896年)4月21日に死去。死後、爵位は長男・正介が継承したが、昭和5年(1930年)に嗣子なく没したため、家系は断絶している。墓は青山霊園にあったが無縁仏となり撤去された。

親族

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ドイツ帝国に留学し、10年間研学に励む。帰国後、第二高等学校で教鞭をとっていたが、1896年(明治29年)5月家督を相続し襲爵したためその職を辞した。

人物・逸話

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  • 明治4年(1871年)10月に開かれた第1回京都博覧会に際し、春季の博覧会の余興として槇村が祇園芸妓舞妓の舞を公開させたのが都をどりの始まりとされている[1]
  • 明治5年(1872年)、「非科学的である」との理由で五山送り火をはじめとするお盆の諸行事を禁止した(槇村離任後の明治16年(1883年)に解除)。
  • 明治9年(1876年)、府令をもって「撃剣の稽古をなす者は国事犯嫌疑者として監禁する」とし、剣術を禁止した[3]

栄典

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位階
勲章等

脚注

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  1. ^ a b c d e f 光永俊郎「京都を復活させた敏腕知事 - 文明開化に尽力した槇村正直」『近代日本の創造史』第7巻、近代日本の創造史懇話会、2009年、3-13頁、doi:10.11349/rcmcjs.7.3 
  2. ^ 『官報』第1169号、明治20年5月25日。
  3. ^ 後任の知事北垣国道は剣術を奨励し、のちに京都は大日本武徳会の本部となった
  4. ^ 『官報』第678号「賞勲叙任」1885年10月2日。
  5. ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。
  6. ^ 『官報』第2584号「叙任及辞令」1892年2月15日。
  7. ^ 『官報』第1324号「叙任及辞令」1887年11月26日。
  8. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  9. ^ 『官報』第2322号「叙任及辞令」1891年3月31日。

関連項目

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公職
先代
長谷信篤
  京都府知事
第2代:1875年7月 - 1880年1月
次代
北垣国道
先代
(新設)
  行政裁判所長官
初代:1890年6月30日 - 1896年4月21日
次代
箕作麟祥
日本の爵位
先代
叙爵
男爵
槇村(正直)家初代
1887年 - 1896年
次代
槇村正介