橘則光
平安時代中期の貴族。橘敏政の長男。従四位上・陸奥守。橘氏長者。金以下作者
橘 則光(たちばな の のりみつ)は、平安時代中期の貴族。橘氏長者・中宮亮・橘敏政の長男。官位は従四位上・陸奥守。清少納言の夫として知られる。
時代 | 平安時代中期 |
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生誕 | 康保2年(965年) |
死没 | 不明 |
官位 | 従四位上・陸奥守 |
主君 |
花山法皇→一条天皇→三条天皇→後一条天皇 藤原斉信 |
氏族 | 橘朝臣 |
父母 | 父:橘敏政、母:右近尼 |
妻 |
清原元輔娘・清少納言、 橘行平娘・光朝法師母 |
子 | 則長、季通、光朝、好任 |
特記 事項 | 橘氏長者 |
経歴
編集母が花山天皇の乳母であり、彼も天皇の乳母子の1人でもあったが、寛和2年(986年)に寛和の変が発生し、花山天皇は退位・出家してしまった。一条朝の長徳元年(995年)六位蔵人に任ぜられると、蔵人の傍らで修理亮・左衛門尉(検非違使尉)等も務めた。
長徳4年(998年)従五位下に叙爵すると、長保3年(1001年)には花山院臨時御給により従五位上に叙せられている。のち、寛弘3年(1006年)土佐守に任ぜられたほか、寛仁年間(1017年 - 1021年)に陸奥守を務めるなど、受領として地方官を歴任。一方で藤原斉信の家司も務めた[1]。
人物
編集盗賊に襲われるが、かえって取り押さえた(あるいは斬り殺した)話が伝えられ、武勇に優れ胆力もあった人物とされる(『江談抄』[2]『今昔物語集』[3]『宇治拾遺物語』[4])。一方、則光の妻、清少納言の作『枕草子』78・80ではやや気弱な人物として描かれている。
『金葉和歌集』[5]と『続詞花和歌集』[6]に1首づつが採録されている勅撰歌人であり、『後拾遺和歌集』1156の詞書の中にもその名が見られる。一方で『枕草子』では、和歌に弱く和歌を読みかけるなら絶交するという、風流を避ける態度を取っているが、さすがに文学面で清少納言と対比すると均衡が取れなかった様子が窺われる[7]。
官歴
編集注記のないものは『枕草子勘物』による。