橘守部

1781-1849, 江戸時代後期の国学者

橘 守部(たちばな もりべ、天明元年4月8日1781年5月1日) - 嘉永2年5月24日1849年7月13日))は、江戸時代後期の国学者伊勢国朝明郡小向村(現在の三重県朝日町)の庄屋の家に生まれた[1][2]。通称は飯田元輔・源助。号は池庵・椎本・生薬園など。

橘守部生誕地案内板 朝日町 (三重県)

概要編集

父の飯田元親は国学者谷川士清の門人であった。八丁堀に転居した25歳の頃に『宇治大納言物語』『古今集』『十訓抄』等を読み、父の遺志をつぐ形で、国学の研究の道へ進んだ[3]

文化6年(1809年)、武州幸手に移住。この頃に田村清八の娘政子と結婚した[3]。さらに国学の研究を深めたが本居宣長を痛烈に批判し[3]、『古事記』よりも『日本書紀』を重んじた。神話の伝説的な部分と史実の部分の区分の必要性を説いた。晩年は江戸に住んで肥前国平戸藩松浦氏の知遇を得た。また晩年、死後安心論にも関心を寄せた。守部独自の国学の説は、武蔵国北部から上野国にかけて普及し機業家などに門人を広げた。

嘉永2年(1849年)、69歳で死去し墨田区向島にある長命寺に葬られた[4][5]。墓碑は墨田区の登録文化財に指定されている[6]。守部の生家は浄土真宗だが、天台宗の長命寺に墓所があるのは、守部と長命寺の住職と歌道の親交が深かったからと言われる[4]

著書に『神風問答』『伊勢物語箋』『待門雑記』『山彦冊子』『稜威道別』『稜威言別』『神代直語』『難古事記伝』『湖月抄別記』『長歌撰格』『短歌撰格』『心の種』などがある。

昭和3年(1928年)、正五位を追贈された[7]

脚注編集

[脚注の使い方]
  1. ^ すみだゆかりの人々 1985, p. 38.
  2. ^ 朝日町役場前には「橘守部翁生誕之地」と刻まれた石碑がある。
  3. ^ a b c すみだゆかりの人々 1985, p. 39.
  4. ^ a b すみだゆかりの人々 1985, p. 40.
  5. ^ 長命寺 -天台宗東京教区
  6. ^ 橘守部墓・橘冬照墓 -すみだ文化財・地域資料データベース
  7. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.56

参考文献編集

  • 鈴木暎一『橘守部(人物叢書)〔新装版〕』吉川弘文館、1988年9月。ISBN 4642051341
  • 『すみだゆかりの人々』墨田区教育委員会、1985年、38-40頁。