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殷 通(いん とう/いん つう、? - 二世皇帝元年7月紀元前209年9月))は、会稽郡郡守

始皇37年(紀元前210年)に始皇帝が崩御して、翌年に漁陽郡陳勝らが反乱を起こすと、各地域に謀反が相次ぎ、江南地方にも及んだ。

これを聞いて不安に慄いた殷通は部下と相談した。その部下は旧の武門出身で、会稽郡の顔役でもある項梁に相談すればよいと答えた。殷通は使者を派遣させて、項梁を召し出した。

数日後に、役所に赴いた項梁は殷通からこれからどのようにすればよいかと問われた。項梁は会稽郡付近の桓楚という豪傑を召し抱えれば、安全であると述べた。これを聞いた殷通は「江南地方のほとんどが反乱を起こした。これは秦を滅ぼす意味を指すであろう。『先んずれば人を制し、後るれば人に制せられる』というが、私は挙兵して項梁どのと桓楚を将軍にしたいと思う」と述べた。

さらに殷通は項梁に桓楚の行方はいずこにあるかと訊いた。項梁は自身の甥の項羽が存じていると述べたので、殷通は外間に控えている項羽を召し出した。殷通の目前に現れた項羽はいきなり殷通を刺し殺した。これに驚愕した会稽郡の軍兵も項羽に斬りかかるも、一部が項羽に斬り倒されて、こうして項梁はそのまま会稽郡を制圧した。

参照文献編集