毛利 徳鶴丸(もうり とくつるまる)は、戦国時代後期の人物。父は毛利隆元毛利輝元の弟にあたる。

 
毛利 徳鶴丸
時代 戦国時代後期
生誕 天文22年(1553年)以降
死没 不詳
幕府 室町幕府
氏族 大江姓毛利氏
父母 父:毛利隆元、母:尾崎局内藤興盛の娘、大内義隆の養女)
兄弟 輝元徳鶴丸津和野局吉見広頼正室)
テンプレートを表示

生涯 編集

天文22年(1553年)以降、毛利隆元の次男として生まれた[1]。母は内藤興盛の娘(大内義隆の養女)・尾崎局[1]幼名は徳鶴丸[1]

没年は不詳[1]。同時代史料などでは徳鶴丸の活動を確認できず、かなり早い段階で夭折したと考えられている[1]。そのためか、兄・輝元が記した永禄12年(1569年)に比定される12月13日付の書状では、「誠に我々ことは、兄弟の一人も御座なく候、手も力なき趣に候、曲なく候」と、自身に兄弟がいなかったかのように記されている[1]

徳鶴丸が夭折したことより、隆元の男子は輝元一人となり、輝元が長らく実子に恵まれなかったことも相まって、毛利氏の後継者問題につながった。輝元は従兄弟の秀元を後継者としたが、その後に嫡子・秀就が誕生したことで毛利家中に混乱が生じ、ひいては徳川家康が家中の問題に介入するようになった[2]

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f 光成準治 2016, p. 11.
  2. ^ 光成準治 2016, pp. 250–251.

参考文献 編集

  • 光成準治『毛利輝元 西国の儀任せ置かるの由候』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2016年5月。ISBN 462307689X 

関連項目 編集