水野忠幹 (松本藩主)
水野 忠幹(みずの ただもと、元禄12年5月5日(1699年6月2日) - 享保8年5月10日(1723年6月12日))は、信濃国松本藩第5代藩主。沼津藩水野家5代。
生涯
編集元禄12年(1699年)、4代藩主水野忠周の長男として江戸日本橋浜町邸で生まれる。母は前田利明の娘。幼名「惣兵衛」、初名「忠茂」。宝永6年(1709年)、6代将軍徳川家宣に拝謁する。正徳3年(1713年)、従五位下・日向守に叙任される。享保3年(1718年)に父・忠周が死去したため、家督を継いだ。「松本御代記」によれば、美男で思いやり深く、才知にも優れた人物で、歌道などの諸芸にも通じていたという[1]。また、藩の財政を立て直すため、目安箱を設置して家臣から意見を募り、人事を改めるなどの改革を行ったため、同年中には財政は1000両の黒字となった[2]。家督相続の際に領内の全百姓に対して籾1500俵を分け与え、享保7年(1722年)には地歴書『信府統記』の編纂を命じるなどした[3]。
享保5年(1720年)、幕命により日光東照宮に代参し、享保8年(1723年)3月、方角火消に任ぜられた。同年、英名の声高く期待されつつも、嗣子なく江戸田安邸で病没する。その後は弟の水野忠恒が継いだ。
系譜
編集父母
正室
- 浅野綱長の娘
養子
- 水野忠恒 ー 実弟
脚注
編集参考文献
編集- 福留真紀『名門水野家の復活 御曹司と婿養子が紡いだ100年』(新潮社〈新潮新書〉、2018年)