江 徳藻(こう とくそう、509年 - 565年)は、南朝梁からにかけての文人は徳藻。本貫済陽郡考城県

経歴 編集

梁の度支尚書・光禄大夫江革の子として生まれた。学問を好み、文章を得意とした。成長すると容姿ふるまいが美しく、身長は7尺4寸あった。南中郎武陵王行参軍を初任とした。南平王蕭偉に召されて、東閤祭酒となった。安西湘東王府外兵参軍に転じ、まもなく尚書比部郎に任じられた。大同元年(535年)、父が死去したため、辞職して喪に服した。喪が明けると、安西武陵王記室に任じられたが、就任しなかった。長らく経って、廬陵王記室参軍となった。廷尉正に任じられ、まもなく南兗州治中として出向した。

承聖3年(554年)、陳霸先司空・征北将軍となると、徳藻は召し出されて府諮議となった。中書侍郎に転じ、雲麾臨海王長史となった。太平2年(557年)、陳霸先が相国・陳公となると、徳藻は尚書吏部侍郎に任じられた。同年(永定元年)、陳が建国されると、徳藻は秘書監に任じられ、尚書左丞を兼ねた。まもなく本官のまま中書舎人を兼ねた。

天嘉2年(561年)、散騎常侍を兼ねた。劉師知らとともに北斉への使者をつとめ、陳曇朗の柩を迎えた。この道中について『北征道理記』3巻を著した。帰国すると太子中庶子に任じられ、歩兵校尉を兼ねた。ほどなく御史中丞に転じたが、公務の失敗で免官された。まもなく振遠将軍・通直散騎常侍の位を受けた。自ら県令の任を求めて、新渝県令として出向した。

天嘉6年(565年)、在官のまま死去した。享年は57。散騎常侍の位を追贈された。著作15巻が残された。

子の江椿もやはり文章を得意とし、太子庶子・尚書左丞を歴任した。

伝記資料 編集