汪 海洋(おう かいよう、Wāng Hǎiyáng1830年 - 1866年)は、太平天国の指導者の一人。

安徽省滁州全椒県出身。翼王石達開天京を離れて独自行動に出るとそれに従ったが、1860年広西省彭大順らとともに部下を率いて離脱し、翌年に江西省で忠王李秀成軍と合流した。その後李秀成に従って浙江省に進軍し、功績を立てて康王に封じられた。

軍が浙江省の失地を次々と回復すると汪海洋は1864年に江西省に転戦し、侍王李世賢のもとで戦った。天京が陥落すると汪海洋は李世賢に従って福建省に入った。1865年5月、李世賢軍が大敗すると汪海洋軍は広東省鎮平に退いた。8月になって李世賢は汪海洋のもとに逃れてきたが、汪海洋は李世賢に罪に問われることを恐れて殺害してしまった。その後汪海洋は北上して捻軍と合流しようとしたが、江西省の清軍に阻まれて広東省に引き返さざるを得なかった。12月、嘉応州(現在の梅州市)を占領した。しかし左宗棠の派遣した康国器王徳榜劉典高連升鮑超黄少春らの湘軍に包囲され、翌年に戦死した。余党は譚体元に率いられ南に逃れた。