河島 良温(かわしま よしあつ、1863年12月14日文久3年11月4日[1][2])- 1938年昭和13年)5月5日[3])は、日本政治家新潟県長岡市高田市長。

経歴 編集

但馬国出石藩士の家に生まれる[1][2]1890年内務省に入り[1][2]高知県佐賀県の各参事官、佐賀県事務官を経て[1][2]1906年、長岡市助役となった[1][2]

1908年(明治41年)2代目長岡市長に就任、3期務めたが、1919年(大正8年)に病気のため退任した[1][2]。病気快復後の1920年(大正9年)1月、愛媛県属となり、同年2月に同県温泉郡長に任ぜられた[1][2]。翌1921年(大正10年)高田市長倉石源造が死去し、これに伴い後任の市長に就任した[1][2]。在任中は上水道の整備に力を入れたが[1]1924年(大正13年)に水道工事をめぐる不正事件が起こり、市長を引責辞任した[3]。市長辞職後は東京に移り住んだが、1938年に死去した。

脚注 編集

  1. ^ a b c d e f g h i 『高田市史 第2巻』83頁。
  2. ^ a b c d e f g h 『日本の歴代市長 第2巻』54頁。
  3. ^ a b 『高田市史 第2巻』84頁。

参考文献 編集

  • 高田市史編集委員会編『高田市史 第2巻』高田市、1958年。
  • 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長 第2巻』歴代知事編纂会、1983年。