津久毛橋城

宮城県栗原市にあった南北朝時代の日本の城

津久毛橋城(つくもはしじょう)または津久裳橋城[2]は、宮城県栗原市陸奥国栗原郡金成津久毛にあった南北朝時代日本の城1341年北朝:暦応4年/南朝:興国2年)に南朝方の北畠顕信が築いた。

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津久毛橋城
宮城県
南から見た城址(2005年12月)
南から見た城址(2005年12月)
別名 津久裳橋城
城郭構造 平山城
天守構造 なし
築城主 北畠顕信
築城年 1341年北朝:暦応4年/南朝:興国2年)
主な城主 北畠氏
廃城年 不明
遺構 曲輪土塁
指定文化財 史跡等未指定[1]
再建造物 なし
位置 北緯38度49分23.0秒 東経141度02分12.5秒 / 北緯38.823056度 東経141.036806度 / 38.823056; 141.036806座標: 北緯38度49分23.0秒 東経141度02分12.5秒 / 北緯38.823056度 東経141.036806度 / 38.823056; 141.036806
地図
津久毛橋城の位置(宮城県内)
津久毛橋城
津久毛橋城
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概要 編集

中世までの津久毛橋は、陸奥国を南北に通じる街道が三迫川をわたる交通の要地であった。

津久毛橋城は、南北朝時代暦応4年(北朝)/興国2年(南朝)9月(1341年)に南朝の北畠顕信が築き、南への進出のための拠点としたものである。

当城は、三迫川沿いの平地北端に位置する丘陵上にあり、『鬼柳文書』(『南北朝遺文-東北編-』所収638号)によると他の4ヵ所の城(館)と共に築かれたという[2]。北朝からは石塔義房が迎撃に出て、翌年の康永元年(北朝)/興国3年(南朝)の戦い(1342年)で顕信を退けた。

脚注 編集

  1. ^ 「栗原市の指定文化財一覧」栗原市公式HP
  2. ^ a b 竹井 2021 p.40

参考文献 編集

関連項目 編集