涙のバースデイ・パーティ

涙のバースデイ・パーティ」(原題: It's My Party)は、レスリー・ゴーア1963年に発表した楽曲。

涙のバースデイ・パーティ
レスリー・ゴーアシングル
初出アルバム『I'll Cry If I Want To
B面 ダニー
リリース
規格 7インチ・シングル
録音 ニューヨーク、ベル・サウンド・スタジオ(1963年3月30日)
ジャンル ポップ
時間
レーベル マーキュリー・レコード
作詞・作曲 ウォリー・ゴールド、ジョン・グラック・Jr、ハーブ・ワイナー、シーモア・ゴットリーブ
プロデュース クインシー・ジョーンズ
チャート最高順位
レスリー・ゴーア シングル 年表
涙のバースデイ・パーティ
(1963年4月)
Judy's Turn to Cry
(1963年6月)
ミュージックビデオ
「It's My Party」 - YouTube
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概要 編集

アーロン・シュローダーの音楽出版社にいたウォリー・ゴールド、ジョン・グラック・Jr、ハーブ・ワイナーの3人がレコードに作者としてクレジットされているが、オリジナルの歌詞を書いたのはフリーのライターのシーモア・ゴットリーブであった。娘のジュディが16歳の誕生日のパーティに祖父母が招かれていると知って泣き出したという出来事を元にゴッドリーブは本作品の歌詞を書き上げ、ワイナーに渡したとされる[1]

曲が書かれた1962年、シュローダーの出版社の受付をしながらいくつかのガール・グループで歌っていたバーバラ・ジーン・イングリッシュは同僚のセッション・シンガーのジミー・ラドクリフのプロデュースの下、本作品のデモを録音。シュローダーに聴かせ、正式なレコーディングを希望するが、会社は興味を示さなかった[2]

1963年2月、イギリスの歌手、ヘレン・シャピロはアルバムを制作するためにテネシー州ナッシュビルに渡る。そのときレコーディングされた曲の中に「涙のバースデイ・パーティ」も含まれていたが、アルバムに先行するシングルには選ばれなかった。アルバム『Helen in Nashville』[3]はその年の10月に発売されたため、結局シャピロのバージョンはゴーアのカバー・バージョンとして扱われることとなった。

当時まだ16歳の高校生であったレスリー・ゴーアはニューヨークでクインシー・ジョーンズからヴォイス・レッスンを受けていた。ゴーアの証言によれば、1963年2月、ジョーンズは200ものデモ・テープをもってゴーアの自宅を訪れ、離れの家で二人はそれらを聴き始めた。両者が共に気に入った唯一の曲が「涙のバースデイ・パーティ」であったため、ジョーンズは同年3月30日、土曜日、ニューヨークのベル・サウンド・スタジオを3時間おさえ、本作品とポール・アンカから提供された2つの曲、計3曲をレコーディングした。編曲はクラウス・オガーマンが務めた[4]

レコーディングが行われた3月30日の夜、ジョーンズがカーネギー・ホールで開かれたシャルル・アズナヴールのコンサートに行くと、たまたまフィル・スペクターも聴きに来ていた。「最近『涙のバースデイ・パーティ』という曲をクリスタルズで録音したんだ(注・実際はブロッサムズであった)」とスペクターから聞かされたジョーンズは会場を脱け出し、急いでベル・サウンド・スタジオに引き返した。スタジオでテスト盤を100枚作り、2日かけて全米のラジオ局に送った。ゴーアは翌週の金曜日、4月5日にカーラジオで初めて聴いたとき、しばらく自分の声だとは気付かなかったという[5]

シングルは同年4月に発売。B面はポール・アンカが書いた「ダニー」。6月1日から6月8日にかけて2週連続でビルボード・Hot 100の1位を記録した[6]。Hot R&B Singlesチャートの1位、ビルボードの1963年年間チャートの29位を記録した。

カバー・バージョン 編集

脚注 編集

関連項目 編集

先代
ジミー・ソウル
イフ・ユー・ウォナ・ビー・ハッピー
Billboard Hot 100 第1位
1963年6月1日 - 6月8日(2週)
次代
坂本九
上を向いて歩こう
先代
サム・クック
「アナザー・サタデイ・ナイト」
Billboard Hot R&B Singles 第1位
1963年6月15日 - 6月29日(3週)
次代
バーバラ・ルイス
ハロー・ストレンジャー