溝呂木 光治(みぞろぎ みつはる、1891年(明治23年) - 1940年(昭和15年)1月13日)は、将棋棋士小野五平十二世名人門下。弟子に間宮純一

東京日本橋区新泉町で誕生。実家は裕福な唐物屋であった。

小野の指導を受けた後、19歳で初段の時に井上義雄が主催する将棋研究会に所属。大正元年に四段となり、同五年に五段、同八年に六段に昇段する。

3階建ての建物からなる溝呂木道場を構え、3階を国民新聞棋戦の対局場に提供する。このころから大崎熊雄との関係が深まり、大崎派の副将格と目される存在となる。また一時期朝鮮の京城に移住し、朝鮮・満州方面の将棋普及に力を注ぐことを計画したこともあるという。

大正10年に七段となる。七段になった機に東京の自宅に戻ったものの、八段への道は険しく「万年七段」と自称したという。昭和15年、50歳の誕生日に心臓発作で急死。八段が追贈された。

参考文献編集

  • 東公平「伝説の棋士 連載弐拾弐」(『近代将棋』2003年10月号62-68頁)

関連項目編集