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炭 太祇(たん たいぎ、宝永6年(1709年) - 明和8年8月9日1771年9月17日))は、江戸時代中期の俳人。水語・三亭・不夜庵などと号した。出身は江戸

経歴編集

江戸においては水国・慶紀逸に江戸座の俳諧を学ぶとともに、劇界や遊里の人々とも交流を持った[1]宝暦年間(1751年1764年)には奥州京都九州などを巡った後、京都島原遊郭内に不夜庵を営んだ[2]。支持者である桔梗屋呑獅のほか、与謝蕪村とも交流があったという。また、太祇は島原の女性たちに俳諧や手習いの教授を行っていた[3]

太祇の編んだ歳旦には俳人や遊里の主人連中の他に、女性たちの名前が見える。それらの多くは島原遊里案内記『一目千軒』[4]と照合が可能であり、実在の太夫や天神たちである。彼女らの句には百人一首のパロディや地歌の曲名を読み込むものなど、趣向が凝らされている[5]。また、秋の島原を舞台に灯籠を飾る行事を復活させたとされる[6]

太祇は明和八年に没するまで島原に住まうことになるが、宝暦六年に一度、江戸への帰遊を果たしている。これは上洛していた五雲の帰江に誘われてのものであり、この江戸滞在にも五雲の住まいに仮寓した。そこで旧知の俳人たちと再会し交流した太祇は、その秋には島原へ戻っている。

句集として『太祇句選』、『太祇句選後編』などがある。没後、親友であった五雲が不夜庵を継いだ。

注釈編集

  1. ^ 宮木慧太、「江戸歌舞伎と不夜庵 : 市川栢莚・金井三笑を中心に」『東京大学国文学論集』 2009年 4巻 p.107-120, ISSN 1881-2139, 東京大学文学部国文学研究室
  2. ^ 京都に来た当初は、発心して道源の名で紫野大徳寺の真珠庵に入っていた。潁原退蔵氏は明和七年不夜庵の春帖の三ツ物より、島原移住を宝暦三年ではないかとしている。
  3. ^ 先師不夜庵太祇居士は予が父の家に隣て、わかゝりし時は弟の吾琴とゝもに、なにはづの道をならひて、あたかも今ひとりちゝをまうけたるばかりのいつくしみを受たりし昔の別なりけり。(太祇追善集『その秋』)
  4. ^ なお、『一目千軒』は呑獅・斜天の編。初版は宝暦七年、太祇の移住後。
  5. ^ http://www.nipponnomirai.jp/en/contest/pdf/Miyaki.pdf[リンク切れ]
  6. ^ 本居宣長『在京日記』、『一目千軒』宝暦七年初版および寛政十三年版、其蜩『翁草』巻百五十五、太祇追善集『その秋』