メインメニューを開く

熊谷 直盛(くまがい なおもり)は、安土桃山時代武将大名豊後国安岐城[6]主。別名に直陳(なおつら)。通称は内蔵允。

 
熊谷直盛 / 熊谷直陳
時代 安土桃山時代
生誕 生年不詳
死没 慶長5年9月17日[1]1600年10月23日
別名 直陳[2]、直高[3]
通称:半次[2](半次郎[4])、内蔵允[2](内蔵介)
墓所 願成寺熊本県人吉市願成寺町)
主君 豊臣秀吉
氏族 熊谷氏
石田正継の娘または石田三成の娘[5]
勝兵衛

目次

略歴編集

鎌倉幕府御家人熊谷直実の末裔(本姓桓武平氏)であるという[7]が、出自はよく分からない。若狭大倉見城[8]熊谷直之(直澄)とは同族というが、両者の関係性も不明[10]

豊臣秀吉馬廻として仕えて、金切裂指物使番となる。

文禄元年(1593年)の文禄の役で、慰問使として11月に渡海[2][11]豊後国の大名大友吉統が改易となった際の使者を務め[4]、文禄2年(1594年)閏9月、豊後国直入郡にある太閤蔵入地3万2,989石の代官となった。翌3年(1594年)春、安岐城と1万5,000石を受領した[2]

ルイス・フロイスの日本通信によると、文禄5年(1596年)閏7月12日の慶長豊後地震の際に、代官として府中にいた直盛の側室と庶子は、倒壊した家屋の下敷きになって死亡したという。

慶長2年(1597年)、慶長の役でも先手目付として朝鮮に渡り、として全羅道忠清道を転戦。特に蔚山城の戦い(第1次)では、救援隊の1つとして活躍した。同3年(1598年)、秀吉の死によって遺物長光の刀を受領した。

しかし帰還後、慶長4年(1599年)、目付として後役遠征中に私曲ための行動があったと、同じ目付だった毛利吉成竹中重利、さらには加藤清正黒田長政らに訴えられ、五大老によって太田一吉らと共に蟄居を命じられ[2]、10月に直盛は改易された[4][3]。その後、石田三成の妹婿にあたるため、直盛は佐和山城に身を寄せた[12]

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると西軍に与し、三成によって旧領安岐を回復[3]。叔父の熊谷外記を城代にして領国を任せ、自らは畿内にあり、450名を率いていて、垣見一直と共に近江勢田橋の警備を命じられた。同地で、伏見城攻撃に参加した相良頼房(および犬童頼兄)、秋月種長高橋元種兄弟、木村由信豊統父子の西軍諸隊と合流[13]。主力が移動すると、8月25日、諸隊として三成を追って同地を発し、佐和山を経由して、9月3日に大垣城に入った。三成は妹婿である福原長堯と直盛に、それぞれ本丸と二の丸の守備を任せて、三の丸に相良・秋月・高橋らを入れたが、14日に主力と共に関ヶ原に出陣した。残された諸隊は15日の西軍主力の敗北後、17日に東軍の水野勝成松平康長西尾光教津軽為信らに包囲された。諸隊は籠城戦の構えを見せていたが、すでにこの時には東軍に内応していた相良・秋月・高橋は蜂起を計画しており、犬童頼兄によって福原以外の諸将は陣に招かれて謀殺され、その首は東軍に献じられた[14]。翌18日、福原の籠もる本丸も強襲されて落城する。また、九州でも安岐城の熊谷外記は、黒田孝高の攻撃を受けて降伏しており[12]、生き残った一族は黒田家の家臣となった。

相良藩の菩提寺である願成寺には、大垣城で謀殺した5人と三成を弔った六基の供養墓があり、そのうちの2つが直盛とその息子の勝兵衛のものである。

一族編集

安岐城の近くの大儀寺に熊谷直盛の弟が住職として勤めていた[15]。文禄4年(1595年)に熊谷直盛は同寺に小城観音を営繕。

慶長5年(1600年)、黒田官兵衛に攻められて安岐城から逃げた姫が小城観音で助かったと言う伝説があるが、直盛の弟がいた大儀寺はこの年に燃えている[15]

脚注編集

[ヘルプ]
  1. ^ 熊本県教育会球磨郡教育支会 1941, pp. 416-417.
  2. ^ a b c d e f 高柳 & 松平 1981, p.93
  3. ^ a b c 大日本人名辞書刊行会 1926, p. 928.
  4. ^ a b c d 熊谷直盛 朝日日本歴史人物事典』 - コトバンク
  5. ^ 石田三成の娘と妹(つまり正継の娘)との説がある。妹の説は白川亨が主張し、渡辺世祐の説では長男の年齢が合わないと言う解釈からであるが、長男は別の妻の子で豊臣秀吉に最も信頼された直盛の後添えとすれば渡辺氏の説でも問題なく、『国東半島史』にも石田三成の婿とある。
  6. ^ 「あきじょう」。もとは田原氏の城で、大分県国東市安岐町にある。
  7. ^ 直盛は、熊谷直実の末裔で、塩津城(在 長浜市西浅井町塩津浜)主であり、和歌山高野山に塩津城主の建てた直実の墓ありとは沢田修二(郷土史家)の説。
  8. ^ 井崎城(伊崎城)とも言う。
  9. ^ 太田亮、国立国会図書館デジタルコレクション 「熊谷氏」 『姓氏家系大辞典』第2巻 姓氏家系大辞典刊行会、1936年、2135-2137頁http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/162 国立国会図書館デジタルコレクション 
  10. ^ 石田家の縁者となり、近江国東浅井郡今庄の熊谷氏に多い「内蔵允」という受領名を名乗っているところを見ると、直盛はむしろ近江熊谷氏であろう。『姓氏家系大辞典』によれば近江熊谷氏は、直実の兄直正から続く系譜であり、安芸熊谷氏(直実の孫直国が祖)の流れを汲む(直之の)若狭熊谷氏は熊谷直助の子孫であって、これらは近隣国の同族であるが系統は異なる[9]
  11. ^ 慰問使ではなく軍目付とも言うが、いずれにしても遠征初年度の渡海[4]
  12. ^ a b 黒川真道 1914, p. 85.
  13. ^ 熊本県教育会球磨郡教育支会 1941, p. 415.
  14. ^ 熊本県教育会球磨郡教育支会 1941, p. 416.
  15. ^ a b 『国東半島史』より。

参考文献編集

関連項目編集