覚助法親王

鎌倉時代から南北朝時代にかけての法親王

覚助法親王(かくじょほっしんのう、宝治元年(1247年[1] - 延元元年9月17日1336年10月22日))は鎌倉時代から建武の新政南北朝時代初頭にかけての天台宗歌人後嵯峨天皇の皇子で、母は刑部局藤原孝時の娘、博子

覚助法親王
続柄 後嵯峨天皇皇子

身位 一品・法親王
出生 宝治元年(1247年
死去 延元元年9月17日1336年10月22日)(享年90)
父親 後嵯峨天皇
母親 藤原博子
役職 聖護院門跡
園城寺長吏
天王寺別当
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経歴 編集

幼くして聖護院に入って文永3年(1266年)に門跡に就任、園城寺長吏天王寺別当[2]などを歴任した。正安2年(1300年二品に叙され、後に一品に至る。建武の新政崩壊後の延元元年(1336年)9月17日に90歳で薨去

歌人としても活躍し、権大納言二条為世などと交流があった。また、『続拾遺和歌集』以下の勅撰和歌集に89首が残っている[3]。自邸でも歌会を開いたという。

脚注 編集

  1. ^ 近藤祐介「聖護院門跡の成立と展開」(永村眞 編『中世の門跡と公武権力』戎光祥出版、2017年) は、聖護院歴代の記録によって享年を87歳とし、逆算より建長2年(1250年)生まれと記している。
  2. ^ 『日本仏家人名辞書』
  3. ^ 『勅撰作者部類』

参考文献 編集