美努 岡麻呂(みの の おかまろ)は、奈良時代貴族三野、名は岡万とも記される。県主のち大学博士美努浄麻呂の近親か。官位従五位下主殿頭

 
美努岡麻呂
時代 奈良時代
生誕 斉明天皇7年(661年
死没 神亀5年10月20日728年11月25日
別名 氏:三野、名:岡万
官位 従五位下主殿頭
主君 天武天皇持統天皇文武天皇元明天皇元正天皇聖武天皇
氏族 美努県主
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経歴 編集

天武天皇12年(683年)県主姓から連姓に改姓する。文武朝大宝元年(701年)第8次遣唐使の小商監に任ぜられ(この時の官位従七位下中宮少進)、翌大宝2年(702年に渡るが、このときに春日蔵老が詠んだ送別の和歌が『万葉集』に採録されている[1]元正朝霊亀2年(716年従五位下主殿頭に叙任された。

聖武朝神亀5年(728年)10月20日卒去。享年68。

美努岡万連墓誌 編集

 
銅製美努岡万連墓誌、東京国立博物館所蔵(重要文化財)。

明治5年(1872年)、美努岡万(岡麻呂)の墓誌銘が大和国平群郡萩原村竜王(現在の奈良県生駒市青山台)の丘陵から同地の農民である忠平の手によって出土した。墓誌銘は鍛造された銅板(縦29.7㎝×横20.9㎝)の表面に1行17字詰で11行に亘って計176字の銘文が刻まれ、前半には経歴が、後半には『孝経』に基づいた文章で功績が記されている。縦横に刻された罫線や『孝経』に基づいた文章など中国的な様相がみられ、遣唐使として唐に派遣されたこととの関係を彷彿させる。日付は天平2年(730年)10月2日であり、没後2年たって埋葬されたものと想定される。

東京国立博物館所蔵で、1955年昭和30年)6月22日重要文化財に指定された[2]。銘文は以下の通り。

我祖美努岡萬連飛鳥浄御原[宮]天皇御世
甲申年正月十六日勅賜連姓藤原宮御宇
大行 天皇御世大寶元年歳次辛丑五月
使乎唐國平城宮治天下大行 天皇御世
霊龜二年歳次丙辰正月五日授従五位下
任主殿寮頭神龜五年歳次戊辰十月廿日
卒春秋六十有七其爲人小心事帝移孝爲
忠忠簡帝心能秀臣下成功廣業照一代之
高榮楊名顯親遺千歳之長跡令聞難盡餘
慶無窮仍作斯文納置中墓
    天平二年歳次庚午十月一日[3]

官歴 編集

注記のないものは『続日本紀』による。

脚注 編集

  1. ^ 『万葉集』巻1-62
  2. ^ 銅製美努岡万連墓誌 - 国指定文化財等データベース(文化庁)、2018年7月6日閲覧。
  3. ^ 美努岡萬連墓誌銅版に就て』 - 国立国会図書館デジタルコレクション、p. 1 - 2、2018年7月6日閲覧。
  4. ^ a b c d e 『美努岡万墓誌』

参考文献 編集

外部リンク 編集