ノート:百人斬り競争

これはこのページの過去の版です。総持庄一 (会話 | 投稿記録) による 2016年1月28日 (木) 05:06個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎たぬき氏の自分勝手な削除について)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。


最新のコメント:8 年前 | トピック:たぬき氏の自分勝手な削除について | 投稿者:総持庄一

保護解除のお知らせ

保護を解除しました。今後はノートでの議論をお願いします。KMT 2006年1月18日 (水) 20:15 (UTC)返信

ローカルルールの提案

編集合戦を回避するために、以下のローカルルールを提案します。ご検討をよろしくお願いします。--ちゃんこなべ 2006年1月21日 (土) 09:40 (UTC)返信

賛成します。編集合戦を防ぐ上でこのルールの実効性が極めて高いことは、「盧溝橋事件」記事で証明済みです。Matunami 2006年1月21日 (土) 09:53 (UTC)返信

※採用されたため省略します。

中立性に欠ける外部リンク

ウィキペディアは外国のものは非常に内容も中立的ですが、日本のものは残念ながら自虐的なものが多すぎます。それは執筆者が意図的に自虐史観を誘導しようということが根拠になっているからです。裁判のようなものが中立と言えるでしょう。検察側と弁護側の主張を両方吟味できるからです。しかし、この「百人斬り訴訟」の項は明らかに中立ではありません。それは、外部リンクを見れば明らかです。”南京事件の真実”は典型的な南京虐殺派の個人HPです。そこで松尾一郎さんを揶揄をしていますが、それならば、松尾氏のHPのリンクを張るべきでしょう。それが、中立という立場です。もっとも、松尾氏は「プロパガンダ戦「南京事件」―秘録写真で見る「南京大虐殺」の真実」という著作もある方ですが、他は単なる個人のブログに過ぎません。全く客観的なオーソライズがされていないわけです。もしウィキペディアが中立であるならば、外部リンクに『南京大虐殺はウソだ!』(電脳日本の歴史研究会)を張るべきでしょう。それが出来ないと言うことは、中立性を否定したことになります。--以上の署名のないコメントは、Johaness24会話投稿記録)さんが 2006年12月28日 (木) 10:24 (UTC) に投稿したものです。返信

この項目の記事は、百人斬り肯定派の見解・否定派の見解に触れており、両者にたいして中立だと思います。裁判のようなものが中立、ということであれば、百人斬り裁判は被告側勝利で最高裁まで確定していますから、被告側(百人斬りはあった)という視点で記述するのが中立ということになります。リンク先は百人斬り否定派のホームページが2つ、肯定派が3つという振り分けも、だいたいにおいて中立です。否定派のサイトのひとつがリンク切れになってしまったのは、保護がかかって以降のことですから、仕方ありません。もちろん、松尾氏のHPにリンクを張りたいというのであれば、一向に構わないでしょう。好きにすればいい。ただし、今は保護がかかっているからどうしようもない。仮に解除されたとしても、記事の内容内容についてはともかく、リンク先に松尾氏とやらのサイトが含まれることを、どうこう言おうとは私は思いません。もっとも、本を書いているからホームページが信頼できる、というものではありませんけれど。単なる個人のブログというなら、松尾氏とやらのサイトも同様です。べつに本を書いた人だからといって、その人のサイトが個人的なサイトでなくなるわけではありません。--Inti-sol 2006年12月28日 (木) 13:33 (UTC)返信

Watanabe Hisashi氏の編集

編集合戦になっていたとは知らなかったので、記事を編集してしまいました。リバートされた場合に備えて、記事の修正をした箇所の要点を述べておきます。(1)「競争」は大阪毎日新聞でも報道されている、(2)記事では「中国兵」とは書かれていない(新聞の読者はそう読むが)、(3)首を斬ったとはされていない、(4)山本と本多は論争をしていない、山本・鈴木批判を行ったのは洞富雄、(5)一審判決の判決理由の要点は必要だと思います、(6)控訴審において「原告弁護人が読み上げようとした控訴趣旨の一部に対し」とあったのは、誤解による記述です。裁判では、準備書面の内容を「陳述しますか」と裁判長が問い、それに対し「陳述します」といえば陳述したことになるのです。長い書面を実際に朗読するわけではありません。しかし、裁判官の「目が曇っている」、判決が「政治的」な判断で歪められているなどと裁判官を愚弄した第2準備書面の「三」について、裁判所は陳述を認めませんでした。結局、稲田弁護士はこの箇所を朗読しました。--Watanabe Hisashi 2006年2月23日 (木) 16:01 (UTC)  (勝手ながら項目名をつけさせて頂きました--ちゃんこなべ 2006年3月23日 (木) 11:17 (UTC)返信


渡辺さん、焦らずにノートで反論を (「否定側の根拠」と「肯定側の根拠」の編集合戦)

要約欄の(「否定する側の根拠」を肯定する側がいじくる必要は無く「肯定側の根拠」でそれの間違いを指摘すればよい。)に全く反論せずにリバートされている。 また、2006年4月14日 (金) 16:17 Watanabe Hisashi (→争点 -  佐藤振壽氏の「日記」は存在しない。回想記に修正。)は元々「日記」などという記述は無く「証言」であり要約欄に虚偽を書いておる。 この虚偽編集者はノートで反論もせずに削除を繰り返す行為で編集妨害行為の「荒らし」として対処します。さつま 2006年4月14日 (金) 16:33 (UTC)返信

上記要約欄に反論もせずにリバートした編集は差し戻しました。渡辺さんの「回想録」編集で正当な部分だけは挿入しておきました。さつま 2006年4月14日 (金) 16:54 (UTC)返信

わたしは以前から(「否定する側の根拠」を肯定する側がいじくる必要は無く「肯定側の根拠」でそれの間違いを指摘すればよい。)と主張しています。渡辺さん、焦らずに早く議論してください。さつま 2006年4月14日 (金) 17:10 (UTC)返信

変更した内容が反映されないので不思議に思っていたら、小生が編集したものがすぐリバートされていたわけですね。それに気がついたので編集は中止することにしました。なお、私は特定の立場を擁護するような編集をしたことはありません。違いますか?しかし、特定の見解以外を排除するような記述や、客観的事実に明らかに反する記述は修正しています。たとえば、東京地裁の裁判官を高裁と間違えて執拗に書き換えた編集などですね。貴殿は田中上奏文でも、さかんに「偽書」と断定的に書きこみたがっていますが、甲乙両論の可能性の余地を残して書くのが、中立的観点に立ったった記述というべきです。
百人斬り競争の「争点」はどの立場も根拠が書かれていませんので、いずれすべて根拠を加筆する予定です。根拠を明示すると、必然的に内容を編集する必要がでてくる個所があります。根拠が示されていないために、自分の見解を挿入しやすくなり紛争の原因となるのです。また、それぞれの記述は論旨を明確にすべきであり、論旨の要約すら書かずに、事実はこの資料に綴られているなどとして外部リンクを示すというのは、事典としてしてふさわしくない記述です。佐藤氏の「日記」に関する記述は次の個所を編集しました。「南京戦従軍当時の佐藤氏の日記と証言が事の真実を綴っている」。「日記」が『南京戦史資料集II』の佐藤氏の記事であるこは明らかですので、そのように訂正しました。この資料には百人斬り競争を否定することは書かれていませんので、本来であれば削除すべきですが、紛争をさけるために削除はしませんでした。不審であれば履歴を調べてください。
「保護」が解除されたら、論争史を理解するために必要な文献・資料(量は多い)を付加し、「論争」にすべて出展を明示する予定です。あなたは、特定の立場に立って書かれた文献のみを残すように、編集したことがあるようですが、私は、どのような立場の文献も検証のために必要なものを網羅しようとしています。あの長い文献リストは、多くの人の協力と大変な労力によって作成したものです。そして、私が事実を検証するために用いたものです。それを簡単に削除されますが(資料集などの文献さえ)、どいういう了見か理解しかねるところです。少々、文献の量が多すぎると感じた方もいるでしょう。しかし、論争史を理解するためには、どういう記事や文献が発表されたのか時系列にする必要があるのです。 Watanabe Hisashi 2006年4月23日 (日) 03:12 (UTC)返信

編集合戦以前の版に戻しました。版は2006年4月10日 (月) 20:55の版です。ルールにもとづいて合意なき編集から戻す場合には、できれば自分の版ではなくこの版に戻してください。--Clinamen 2006年4月14日 (金) 17:19 (UTC)返信

編集合戦以前の版は2006年4月14日 (金) 05:12 さつま (→関連項目 - リンク重複)です。渡辺さんの反論待ちです。さつま 2006年4月14日 (金) 17:25 (UTC)返信

いや、あなたも当事者ですし、その版と4月10日の版の間には、両当事者の編集しかなく、すでにその時点から現在と同じ論点の対立が存在している。公正を保つためには、自分の編集したバージョンに戻すのは避けるべきです。--Clinamen 2006年4月14日 (金) 17:34 (UTC)返信

当事者の渡辺氏がこちらの「ノートで反論を」の呼びかけに依然として応じないないのですから合意 したものと見なされます。当事者間の経緯を尊重してください。さつま 2006年4月14日 (金) 17:43 (UTC)返信

あと「2006年4月14日 (金) 16:39 Clinamen」で編集合戦に参入し渡辺氏の編集に差し戻している段階でClinamen氏が「公正を保つ」なんて気がさらさらないのは自明です。さらに渡辺氏はノートでの対話を拒否し、ひたすらリバートと相手に悪印象を植えつける為の見せ掛け編集工作をしている。せっかくたね氏が「保護」を貼った後も言論抑圧リスト者のMatunami氏が差し戻して、筋書き通り問題管理者のNiKe氏が渡辺版で「保護」するという組織的な言論抑圧行為です。あの言論抑圧者の意向に沿わない編集が実質不可能なふざけたローカルルールの「原作者」も言論抑圧リスト者のちゃんこなべ氏のようです。さつま 2006年4月15日 (土) 17:25 (UTC)返信

「さつま」は歴史修正主義Peaceのソックとして無期ブロック。--124.155.16.35 2006年12月14日 (木) 02:58 (UTC)返信

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 プロセスはともかく文章を判断すると、

 「否定する根拠」の四項目は重複がありませんが、「肯定する根拠 」の6項目は重複が多く、実質は、 3と、5の‘故郷で武勇伝的に語っていたという部分’と、志々目証言、望月証言の四つです。 5の武勇伝として語るというのも、記事に協力したことは誰も否定していないので、根拠になり得ないのは明白であり、実質3項目というべきでしょう。

 つまり、不要に文字と項目を膨らませ、あげくにそれぞれの証言の立場をブレンドして相互矛盾を隠している。これでは、印象操作の記事だと言わざるを得ません。--如月の弥 2007年2月9日 (金) 09:43 (UTC)返信

その後の情報

保護されているので。高裁判決が出ました。一審支持・控訴棄却。原告は上告の方針だそうです。

百人斬り訴訟:東京高裁が原告の控訴棄却、一審判決を支持(毎日新聞)
「百人斬り競争」訴訟、二審も本社などが勝訴(朝日新聞)

しかし、“名誉毀損の有無を争う訴訟で、事実の有無を争うものではない”とは、上手い逃げ方をしてますね、本項は。そんなに“なかった事”にしたいのでしょうか?--211.13.148.88 2006年5月25日 (木) 09:45 (UTC)返信

裁判が法的判断を争う場であって、歴史的事実の存否を争う場ではないことは、当然のことですよ。裁判官は歴史家ではありません。法律の専門家です。--61.193.89.157 2006年9月25日 (月) 08:57 (UTC)返信
法的判断が示されたらそれが“事実”となるわけですが。--202.208.159.135 2006年11月5日 (日) 05:30 (UTC)返信
なりません。判決では虚偽とする証拠には不十分で認められない。と言っているだけです。法的、とはどういうことか勉強してください。psachopin 2008年10月21日 (火) 14:56 (UTC)返信

各社報道比較

判決理由の部分について、各社報道を比較してみました。
---毎日新聞 5/25 朝刊---
「百人斬り」報道訴訟:原告の控訴棄却--東京高裁
石川善則裁判長は判決で「記事の重要な部分が全くの虚偽だとは認められない」と述べ、請求を棄却した1審・東京地裁判決(昨年8月)を支持した。判決は「真否について論争を呼ぶ歴史的事実に関する記事が不法行為に当たるとするには、重要な部分が全くの虚偽であることが必要」と指摘。「殺傷数などは疑わしいが、競争した事実自体を否定することはできず、新聞記者の創作とは認められない」と述べた。
---朝日新聞 2006年5月24日(水)20:38---
「百人斬り競争」訴訟、二審も本社などが勝訴
焦点は「何が真実かをめぐって論争を呼ぶような歴史的事実に関する表現が、故人に対する遺族の敬愛追慕の情を違法に侵害したか」だった。判決は、違法に侵害したと言える前提として「摘示された事実の重要な部分が全くの虚偽であることが必要」との基準を示した。そのうえで、それぞれの記述は全くの虚偽とは言えないと判断。遺族側の主張を退けた。
http://news.goo.ne.jp/news/asahi/shakai/20060524/K2006052403900.html
---共同通信 2006年5月24日(水)18:07---
2審も軍人遺族の請求棄却 百人斬り「虚偽と言えぬ」
石川善則裁判長は判決理由で「日本刀の性能などから記事中の殺傷数などは信じられないが、2人が記者に話した内容が報道のきっかけになっている。当時『百人斬り』と報道される競争をした事実は否定できず、記事は虚偽とは言えない」との判断を示した。
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/shakai/20060524/20060524a4790.html?C=S
---日本経済新聞---
「百人斬り」報道訴訟、原告側の控訴棄却・東京高裁
判決理由で石川善則裁判長は、百人斬りを最初に報道した1937年の東京日日新聞(現・毎日新聞)の記事について「当時の戦闘の実態などに照らし、記事に記載された殺傷数などは信じることができないが、少尉2人が競争した事実自体は否定できず、記事が全くの虚偽とは認められない」と述べた。
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20060524AT1G2402B24052006.html
---産経新聞 5/25 東京朝刊--
百人斬り損賠訴訟 遺族の控訴棄却 記事の真偽「疑い」強める
石川裁判長は「百人斬り」の記事について、一審で「疑問の余地がないわけではない」とした部分を「信じることはできず、甚だ疑わしいものと考えるのが合理的」と変更。真偽については疑いを強める判断をした。だが、「二将校が記者に話をしたことで記事が作成された」と認定。「(記事が)全くの虚偽であると認めることはできない」として、遺族の訴えを退けた。
Watanabe Hisashi 2006年5月26日 (金) 04:27 (UTC)返信

いつ解除されるの?218.222.134.117 2006年9月22日 (金) 07:54 (UTC)返信

日本刀の性能について

今の版は日本刀の性能についてあまりに自虐的ではないですか?少なくとも当時資料たる「戦ふ日本刀」に順ずる編集にすべきでしょう。--Miwa.SS 2006年10月31日 (火) 04:49 (UTC)返信

「自虐的」とは、自分自身を虐げることですが、誰か自分で虐げましたか?百人斬り競争の話題になると、日本のすぐれた伝統技術で作られた日本刀が斬れないと言い出す人がいます。それが「自虐」ということでしょうか?確かに成瀬関次は日本刀がよく斬れると考えていましたし、実際に日本刀が日中戦争で使われたからこそ修理に行く必要が生じたのですね。両将校が自慢の刀だけで競争していたのかどうかは分かりませんが、少なくとも捕虜をいわゆる据えもの斬りにしていたことは間違いないようです。そのような証言は複数あります。今年(2006年)になって秦郁彦氏も野田氏に会った人の話などから、本人が捕虜の据えもの斬りであったと「告白」していたことは事実らしいと結論しています。(『政経研究』第42号第4巻, p.94)その点は、決着済みといえるでしょう。Watanabe Hisashi 2006年11月1日 (水) 14:58 (UTC)返信
三光などの(中共POVで信頼性に欠けるとする異論もある)著作では、斬首による処刑の際にも日本刀の曲がりや折れが生じていたとする記述がみられます。三光では、処刑を行った将校の技量が低かったこと、軍刀の品質が悪かったことをその原因として挙げていました。耐久性など実戦での問題としては、低品質な昭和刀だけでなく江戸期の新刀も軽量で耐久性が弱かったことが知られております。しかし、昭和刀でも高品質な個体は、外見はともかく実用性・耐久性の点では有用で、ライトセーバーやメトロテカクロム鋼、斬鉄剣など想像上の刃物でなくとも100名近くの死刑囚(および違法に処刑された容疑者・捕虜)の頸を刎ねる性能があった可能性は否定できません。白兵戦に使用して敵兵100名を戦死させるのは非常に困難だと予想しますが、そもそも軍刀は消耗品で、交換・修理していた可能性が非常に高いわけでして。--Lemmingdead 2006年12月15日 (金) 06:54 (UTC)返信

実際の戦闘において日本刀で斬ったとしても衣服や身につけている物品(金属類)などが抵抗になって妨げられてしまう上、過酷な状況下での使用方法は著しい刃毀れと相重なり、刀身に付着した血液が時間の経過と共に凝固して殺傷力が極端に低下するために百人斬りというのは物理的に不可能ではないでしょうか?

>日本刀の性能についてあまりに自虐的ではないですか?  そうは思いません。 基本的に武器とは、扱える限りに於いて重ければ重いほど高威力かつ高耐久性です。 そのような中で、日本刀は"軽量な"武器の中で抜きん出て高威力かつ高耐久性な事が評価されているに過ぎません。 より重量な武器と比べた場合、日本刀は十分な威力を持つものの、耐久性では劣る武器でしか有りません。 ただし、これは斬殺武器として見た場合であり、刺殺武器としては長さ以外は非常に優秀です。 最も、捕虜を滅多刺しにして殺していたなどと言う証言は1つも無いのですが。--さささら 2009年2月12日 (木) 14:13 (UTC)返信

高裁判決・その他

ずっと保護状態になっているようですが、二審の東京高裁判決が出たという事実程度は記事に反映すべきと思いますがいかがでしょう。

それから、否定する根拠の中に

当時向井少尉は手足を負傷しており、百人斬り競争に参加することは不可能であったという証言がある。

という項目がありますが、記事中にも参考文献として明示されている、秦郁彦「いわゆる「百人斬り」事件の虚と実 (1)(2)」(『政経研究』第四十二巻第一号、第四号 日本大学法学会)によると、「歩兵砲小隊の部下(第二分隊長)だった田中金平伍長は向井が負傷せず、南京占領まで戦ったと筆者に語り、分隊員の辻岩松、松田清治郎の両氏や松田利春中尉(第八中隊長)も同様の記憶である。」とのことで、富山大隊長の「受傷証明」は旧部下を救うために作った偽証の可能性が高いと結論づけております。その点についても触れるべきかと思います。--Inti-sol 2006年11月12日 (日) 01:26 (UTC)返信

二審判決の事程度は記事に反映すべき←管理者伝言板に対応依頼された方がいますが、「完全保護中の記事は管理者編集の範囲外」として却下になっています。--124.155.18.51 2006年12月19日 (火) 09:50 (UTC)返信

最高裁判決。遺族の上告棄却。“名誉毀損に非ず、記事内容は事実と信ずるに足る。また毎日新聞への請求は除斥期間経過により権利を認め得ず”との事。

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20061223k0000m040021000c.html --Gordon S 2006年12月22日 (金) 13:36 (UTC)返信

ウィキペディアは中立的な立場を貫くはずですが、どの項目もだいたい自虐的なものが多すぎます。「百人斬り訴訟」に関しても、表面上は中立を装っていますが、外部リンクの所は、札付きの南京虐殺肯定派のものしかありません。もっと、南京事件や百人ぎりなどに否定的でしかも、客観的な史実に基づくHPが存在します。つまり、リンクの選び方を見て。この記事の内容が、南京肯定派によって書かれたものであることが明白である以上。ウィキペディアとしての尊厳が失われたことになるわけです。厳重な注意を喚起いたします。以上の署名の無いコメントは、Johaness24会話履歴)氏が[2006年12月25日 (月) 04:04 (UTC)]に投稿したものです。返信

それはご自身の主張が自由主義史観―“大東亜戦争”肯定に立脚しているという事ですね?それもそれでPoVではないのかと愚考します。--220.157.221.110 2006年12月26日 (火) 08:14 (UTC)返信
外部リンクのうちのふたつは百人斬り裁判原告側のものなんですが。そのうちのひとつは閉鎖されてしまっていますけれど、ひとつは残っています。存在した事実を事実として書くことに、自虐もなにもありません。--Inti-sol 2006年12月26日 (火) 12:51 (UTC)返信

2006-12-22の「最高裁判決。・・記事内容は事実と‘信ずるに足る’」は虚報ですね。リンク先も消えてるし。--如月の弥 2007年3月5日 (月) 11:52 (UTC)返信

誹謗はおやめ下さい、歴史修正主義者の“如月の弥”さん。最高裁判決文(事実.comよりPDFファイル)--202.208.157.240 2007年4月5日 (木) 06:24 (UTC)返信
忘れていた項目ながらたまたま、・・・これが裁判結果か、やっぱりねえ。--如月の弥 2007年5月1日 (火) 16:37 (UTC)返信

悪意に満ちた項目、中立性のなさと下品さ

外部リンクの中立性のなさが全てを物語るこの項目は、世界のウィキペディアが中立性を守っているなか、もっとも下品な項目として嘲笑の対象になるでしょう。英文で紹介しますので、是非、外部リンクの不正さを維持してください。

また、その他の小項目において、

「百人切りという言葉は、人間の殺傷に対して以外に、男性がどれだけ多くの女性と性的交渉を持てたかを形容する言葉としても用いられている。」

というのは、百人斬りと全く関係ありません。百人切りという言葉が辞書でそのような意味に使われるということは書かれていません。百人、千人切りとかは単なる俗語です。

この項目がやはり、単なる自虐史観の呪縛の垂れ流しであることが証明された様子ですね。このように、女性に対する性行為という言葉を入れることによって、百人斬りのイメージを歪めようというのでしょう。これも品性のなさから出た愚行ですので、笑いものになるでしょうね。中立性のなさはミエミエです。ネットストーカーがいくらレスをつけても意味がありません。ホロン部の連中のテロにはつきあいませんので、悪しからず。以上の署名の無いコメントは、Johaness24会話履歴)氏が[2006年12月29日 (金) 15:51]に投稿したものです(TEyによる付記)。

私の投稿が消されていたのですね。気づきませんでした。TEyさま、復元ありがとうございます。Johaness24氏のご意見については、コメントの必要もないでしょう。--Inti-sol 2006年12月31日 (日) 14:59 (UTC)返信

「歴史論争における一勢力に過ぎない“自虐史観”なる単語を以って自国に不利な記述を歴史上から排除する事に熱心な層」に、自身が属する事を文面で表明しながら「“ホロン部”なる実在の証明の為されていない何らかの組織の介入によってこの項目が悪意的に編集されていると言う妄想」を論拠とした上で「中立性」を他者には求めると言うのもいかがなものでしょうかね。--以上の署名のないコメントは、220.51.175.80会話/Whois)さんが 2007年1月20日 (土) 22:06 (UTC) に投稿したものです。返信

 “自虐史観”とは、=‘自国に不利な部分的ことがらや他国の感情的態度によって、その大小真偽の程度を問わず、自国にあらゆる責任の中心があるか強い悪意があり、他国はすべて免責的・正当的に解釈しようとする歴史観であり、さらに現代政治にもそれを当てはめて外交の基本としたり次世代教育を行う、という態度’  のことですよ。 知識をレッテル貼りした上で冷静さを説くことは、はっきりわかる感情的態度よりも他人には危険です。

 なお、「百人切りという言葉は・・と性的交渉・・。」というのは、一般的注意として有用だと思います。----如月の弥 2007年2月9日 (金) 09:10 (UTC)返信


ノートを通読しましたところ、どうも署名漏れが多く見受けられます。もしも、それらの方々がわざと署名しない意志を持っているのであれば、それはいわゆる荒らしと言われても仕方のないことをご自覚願います。

そこで、自らの責任において書いていると自負される方のうち、署名の記入方法が分からない方は今後、この欄の下にある「編集の仕方」内の「5.3.2」にある署名方法をご一読のうえ、署名をお願い致します。---219.58.227.195 2007年6月5日 (火) 16:36 (UTC)返信

毎日新聞が「未だに捏造体質」であることを鑑みると、ウィキペディアとして客観的に見た真否の信頼性はかなり落ちるはずだと思うのですが。。とりあえず、このような場所で決着が着くわけもないですし、未だ決着は着かず真否は不明とするのが正しいかと。psachopin 2008年10月21日 (火) 15:09 (UTC)返信

イメージ追加

 
1937年12月13日,1937年12月《東京日日新聞》右からは野田毅向井敏明

この画像は、2009年9月11日 (金) 23:40にノートに、現状のファイル名で追加(差し替え)されています。ここまで、このイメージの追加に特段の異論はないようですが、まだ記事本文には反映されていません。さらに3日待って特にご異論がなければ、本文冒頭部にこの画像を挙げます。コメントをお寄せください。--山田晴通 2010年5月5日 (水) 09:13 (UTC)返信

このイメージを追加すると、以前IP氏によって差し戻しになっていますね。異論はないのですが、出来ればトリミングして2人の写真部分だけをアップされる方がよいような気もします。--鯉華厨師(Carpkazu) 2010年5月5日 (水) 09:17 (UTC)返信

掲載は同意。きっかけとなった重要な記事ですし、概要の節はその新聞記事の説明となっており、概要の節に掲載することを提案します。また、台湾の写真は重要性を感じないので差し替えることでよろしいかと。--220.147.9.44 2010年5月5日 (水) 10:03 (UTC)返信

昨日の提案時に、書き漏らしましたが、画像を掲出する際には、キャプションを次のように改めるべきかと思います。

「百人斬り」を報じた、1937年12月13日付『東京日日新聞』の記事(第4報)の冒頭部分。

なお、この記事の全文は、向井敏明#東京日日新聞の記事内容に引用(というか採録)されています。 このキャプションの書き換えについても、ご意見をいただければ幸いです。--山田晴通 2010年5月6日 (木) 13:42 (UTC)返信

概要の節に現在のイメージとの差し替えで掲載の同意、そしてそのキャプションも同意しておきます。220.147.9.44--220.147.9.12 2010年5月7日 (金) 12:04 (UTC)返信

9月11日付での提案に対して、コメントをいただいた皆様、ありがとうございました。

  • 鯉華厨師(Carpkazu)さんから「異論はないのですが、出来ればトリミングして2人の写真部分だけをアップされる方がよい」というご意見をいただきました。これについては、今回提案した内容から外れていくと思いますので、できれば別個の問題として提起していただければと思います。
  • IP(220.147.9.44)さんからは、本文冒頭部ではなく、概要の節の記事に連動させるべきであるというお考えと、現在掲出されている画像の撤去が提案されています。新聞報道への言及は本文冒頭の定義部分にもあります。また、現在ある台湾の国軍歴史文物館の画像は、概要の記述内容と連動した形でここにおかれているものです。おっしゃる方向で既存の画像を撤去するには、これも別個の問題として議論をしていただく必要があると思います。

以上を踏まえて、とりあえず、本文冒頭部にこの画像を挙げます。必要でしたら、引き続き、この画像を(トリミングを施したものなど)他の画像に差し替えるべきか、掲出位置を「概要」の節に移すべきか、国軍歴史文物館の画像を撤去すべきか否かについて、ご議論をいただければ幸いです。--山田晴通 2010年5月8日 (土) 06:29 (UTC)返信

  • 文字部分を含んだほうが元記事の紹介画像として優れていると思います。このさい向井・野田両少尉の写真「そのもの」だけではほとんど意味が無いと思います。--大和屋敷 2010年5月8日 (土) 07:07 (UTC)返信

申し訳ないが、概要の節での掲載で同意したはずです。冒頭ならば反対します。この新聞記事は「行った」とする方向で報道されたものであり、冒頭に置くには中立的に問題を感じます。冒頭でなく新聞について詳細に説明した箇所での掲載でお願いします。--218.217.154.184 2010年5月9日 (日) 09:32 (UTC)返信

100歩譲って大和屋敷氏が中立的にしっかり説明した文も含めるならば[1]、冒頭でも同意します。それ以外は徹底的に反対しておきます。--218.217.154.184 2010年5月9日 (日) 09:46 (UTC)返信

ローカルルールについて

合意を得ましたとありますが、このルールに関する議論はどこで行われたのでしょうか?もしこのノート以外の場所で議論されていたのであれば、そこへのリンクを示す必要があると思います。議論の内容が示されないことには、このルールが正当な合意に基づく遵守すべきルールなのか、それとも根拠のない狂言であるのかということが判断しかねます。218.110.115.163 2007年12月20日 (木) 00:27 (UTC)返信

履歴を見ることが出来るのですから、履歴を見ればよいと思いますよ。... Kanoe 2007年12月20日 (木) 05:37 (UTC)返信
それはちょっと乱暴ではないですか?まずこのノートで議論されていたのかどうかすらわからないですし、履歴のどこを見ればよいのかもわからないのですから。
さて、ご指摘の通り履歴を調べてみたところ、Johaness24氏の編集によって、ルールの提案がなされた節が消されていたことが混乱のもとのようです。本来の位置に復元しておきました。
議論の内容ですが、影響力の大きいルールを決める問題であるにもかかわらず、賛成者一名のみで合意とみなすというのはいささか問題があるのではないかと思います。とはいえ個人的には明確に反対というわけでもないので、私からはこれくらいにしておきます。218.110.115.163 2007年12月20日 (木) 06:15 (UTC)返信
私から言わせれば、履歴が辿れるのに能動的姿勢を放棄して受動的姿勢から始まる方が乱暴だと思うのですが(あと、何故過去ログ部分を消去して元に戻したのか不可解ですが、それは置いておくとしましょう)。えーと、Wikipediaって意外に投票を呼びかけても割とROMにに徹する人が多いと思いますよ。余程のことがない限り、無投票で信任、という流れが多いと思います。まあ、私の主観でしかないですが。
ローカルルールは「影響力が大きい」とのことですが、ローカルール自体はWikipediaのルルール(?というか、マナー?)に沿ったものだから問題ない、というのが私の解釈です。ですが、「明確に反対」する段になったら、またコメントを頂ければと思います(私が対応するのかどうか不明ですが)。... Kanoe 2007年12月20日 (木) 13:23 (UTC)返信

「三大方針」について

投稿ブロックの方針その改訂版は基本的に全ての手の利用者が従うべきウィキペディア日本語版の公式な方針、あるいはそれに準ずるものです。その方針に従った編集に意義があるのであれば、まずは方針自体を改定してください。--Checkthere 2007年12月26日 (水) 05:09 (UTC)返信

あなたもガイドラインを無視しておられるようですね。--122.249.117.11 2008年3月4日 (火) 14:49 (UTC)返信

保護中の編集依頼について

[[ko:100명 참수경쟁]]が追加されておりますので反対がなければ管理者伝言板に依頼いたします。--Tiyoringo 2008年12月7日 (日) 04:33 (UTC)返信


有用なリンク追加

非常に有用克つ中立的で、論理的な見解をお持ちの方の、サイトのリンクの許可を頂きましたので、これを紹介したいと思います。[2]及いては外部リンクへの追加も希望します。 この知的共同作業に於ける有益な情報源として、ここに来た皆さんにとって実りのあるものとなれば幸いです。--L⇔R 2009年3月11日 (水) 22:59 (UTC)返信

保護解除提案

この記事は2006年4月に編集合戦を理由に(実際にはLTA:PEACEによる荒らし)無期限全保護となりましたが、その後長期にわたって議論がないことから保護解除を提案いたします。保護解除に当たっては

という注意書きを貼り付け、もし差し戻しを強行する利用者が現れた場合にはLTA:PEACEとしてWikipedia:管理者伝言板/投稿ブロックへ通報すれば問題ないはずです。--Web comic 2009年4月12日 (日) 02:51 (UTC)返信

参考文献の節の名称変更を提案

調べてみましたが現在「参考文献」となっているものが本文の記述に役立った形跡がありません。

  • 板倉由明『本当はこうだった南京事件』(日本図書刊行会、1999年)
  • 鵜野光博「百人斬り競争の虚報を証明した野田少尉の日記」(『正論』2001年8月号)
  • 向井千恵子「裁かれる百人斬り捏造報道」(『諸君!』03年9月号)
  • 秦郁彦「いわゆる「百人斬り」事件の虚と実 (1)(2)」(『政経研究』第四十二巻第一号、第四号 日本大学法学会)

これらは210.147.66.12さんが2006年4月10日 (月) 11:27の編集によって書き加えたものですが編集内容の要約は記載されず、本文中への加筆も行われていません。

  • 洞富雄「軍隊教育に培われた青年将校の精神構造--「百人斬り競争」は「事実」であったか「語られた事実」であったか」(『歴史評論』269、1972.11)
  • 鈴木千慧子「〈百人斬り競争〉訴訟はなぜ起こされたか 」(『歴史地理教育』666、2004.3)
  • 小野賢二「報道された無数の〈百人斬り〉」(『戦争責任研究』50、2005.冬季)
  • 熊谷伸一郎 「歴史修正主義との闘い 検証 南京事件・「百人斬り」訴訟--問われる戦後責任・報道責任」(『世界』745、2005.11)

これらは210.132.218.161さんが2006年4月10日 (月) 11:55の編集によって書き加えたものですが編集内容の要約は「(参考文献追加)」と記載されましたが、本文中への加筆は行われていません。

  • 笠原十九司『「百人斬り競争」と南京事件』(大月書店、2008年)

これはロンドルさんが2009年4月17日 (金) 02:31の編集によって書き加えたものですが編集内容の要約は記載されず、本文中への加筆も行われていません。

記事の中には脚注による上記の文献が利用されるということも行われていません。実際は編集者の中には記事の中のこの部分は上記の書籍のここにあると知っている方もいると考えられます。その情報がはっきりするまでは「参考文献」ではなく「推薦文献」として扱いたいと考えています。これはWikipedia:レイアウトの指針#参考文献にある「出典として利用していないが、その記事に関連している文献・資料などは、記述の出典と混同しないよう、別の節を作るなど、分離して記載するようにしてください。」の方針に基づくものです。同時に「出典の明記」テンプレートをつけて作業が進められるようにしたいと考えています。--Sweeper tamonten 2009年4月17日 (金) 23:51 (UTC)返信

なるほど。しかし、「関連文献」という名称の方が一般的なのではないですか?--130.54.130.245 2009年4月18日 (土) 16:56 (UTC)返信
Wikipedia:レイアウトの指針#参考文献には「further readingsに相当する表現なども含めてノートで議論中です。」とあり、Wikipedia‐ノート:レイアウトの指針#参考文献と推薦文献について(その1)Wikipedia‐ノート:レイアウトの指針#参考文献と推薦文献について(続きその2)に"Further reading"に対応する言葉として「推薦文献」が出ています。このため、「推薦文献」という言葉を選択しました。「関連文献」については知りません。どこかで話題になっているのでしょうか。それとも一連の記事のシリーズに使用されているのでしょうか?--Sweeper tamonten 2009年4月18日 (土) 23:57 (UTC)返信
(追記)調べましたが「関連文献」を使用している記事数は800程度、一方「推薦文献」を使用している記事数が4では130.54.130.245さんが仰ることがもっともですね。Wikipedia‐ノート:レイアウトの指針#Further reading節には「読書案内」、「参考文献」、「推薦文献」、「推薦資料」、「関連資料」、「推薦読本」、「推奨文献」、「推薦資料、推薦文献(併記)」、「(より) 進んだ読みもの」、「(より) 詳しく知りたい人のために」、「補足資料」が挙げられています。実際に使用されているものは「参考文献」を除くと「読書案内」、「推薦文献」、「関連資料」、「推奨文献」、「(より) 詳しく知りたい人のために」、「補足資料」です。ここで現在「百人斬り」の「参考文献」に上げられている文献は記事作成のために使用したものではなく、読んだほうがいいよという意味で加えられたものと仮定するとその意味では「読書案内、「推薦文献」、「推奨文献」、「(より) 詳しく知りたい人のために」のいずれかがいいと考えますが、必ずしもそうではないので実績も考えるなら「関連文献」も考慮の内でしょう。ここまでは考えました。しかし、「関連文献」という節の性質についてはWikipedia:レイアウトの指針には無いようですし、どこに合理的な根拠を求めるべきかと考えています。--Sweeper tamonten 2009年4月19日 (日) 00:57 (UTC)返信
(さらに追記)Wikipedia‐ノート:レイアウトの指針#Further reading節においても「関連文献」についての言及がありました。ここで問題としている文献がどんな意図を持って書き加えられたかはっきりとは分からないことから考えれば実績とレイアウトの指針のノートで話し合いがなされている中で言及されていることを基に「関連文献」を使用したいと考えます。--Sweeper tamonten 2009年4月19日 (日) 03:27 (UTC)返信
130.54.130.245さんとは実質的に合意が得られ、他に異論もありませんでした。よって現在「参考文献」となっている節を「関連文献」に変更し、「出典の明記」テンプレートをつけます。--Sweeper tamonten 2009年4月22日 (水) 00:07 (UTC)返信

関連文献の並びとISBN情報付加について

Wikipedia:出典を明記する#参考文献の示し方に基づき、著者名別の五十音順に修正し、ISBN情報を加えられるものについては追加したいと考えています。--Sweeper tamonten 2009年4月22日 (水) 07:59 (UTC)返信

これは、私が下記の箇所に関して差し戻してしまったものですので、謝罪します。異論はありません。--130.54.130.237 2009年4月23日 (木) 09:41 (UTC)返信
この提案について異論は提示されませんでした。提案に関する討議はなく、所定の過程を終了しました。他の提案の結果とあわせての編集を行います。--Sweeper tamonten 2009年5月1日 (金) 22:36 (UTC)返信

「戦犯裁判」の節の見出しを修正する提案

Wikipedia:スタイルマニュアル (見出し)#見出しの中でリンクはしないに基づき、見出しを修正したいと考えています。とりあえずリンク状態の解除が必要と考えています。--Sweeper tamonten 2009年4月22日 (水) 08:05 (UTC)返信

求めていた作業はおはぐろ蜻蛉さんの2009年4月22日 (水) 11:31の編集によって修正されました。とり急ぎここに記録しておきます。--Sweeper tamonten 2009年4月22日 (水) 11:52 (UTC)返信
この提案について異論は提示されませんでした。所定の過程を終了しました。この提案ならびにおはぐろ蜻蛉さんの編集作業が承認されたものとします。--Sweeper tamonten 2009年5月1日 (金) 22:36 (UTC)返信

参考文献の追加について提案

現在、引用状態が不明な文献が関連文献として記事に表されています。今後、これらの文献で本文に引用されているものがあれば順次参考文献として移動させるべきと考えています。節の作成と同時に『「百人斬り訴訟」裁判記録集』(百人斬り訴訟を支援する会編集. 展転社、2007年) ISBN 9784886563095 を置きたいとも考えています。記事の中には判決からの引用部分がありますのでその確認の為にも有用な文献と判断しています。--Sweeper tamonten 2009年4月22日 (水) 08:12 (UTC)返信

refタグで脚注をつけて出展情報をつける際にその中で参考文献名を挙げているのだから、参考文献という節でまとめる意味はあまりないでしょう。それと、最後の発言から7日間異論が提示されなければ、とあるので先の編集では7日間は待つべきだったのでは?--130.54.130.237 2009年4月23日 (木) 09:39 (UTC)返信
最後の発言から7日間という部分ですがこれは異論が出て合意を得なかった場合に7日間ということと判断しています。今回はいただいた意見に基づき「関連文献」としたので提案者である私がいただいた意見に合意したということで問題はないと思います。もし意見でなく質問ということであったならまったく問題はないと思います。ルールのことで問題があるようならより分かりやすいルールの記述に変えて誤解のないようにしましょう。
さて「refタグで脚注をつけて」ということですが通常は複数の参考文献を基にして記事が作成されます。このときに脚注機能だけにたよると一体何冊の書籍を基にしているか分かりづらく、その並びも50音順でもなければアルファベット順でもありません。しかも脚注機能は参考文献だけを示すとは限りません。参考文献が多い場合には同じ著者の本が並んで、それも著者の順が50音順になっていた方が便利でしょう。Wikipedia:出典を明記するにもその先頭の段に「参考文献(書籍や論文、ウェブページなど)の一覧を用意してください。」とあります。このため、参考文献の節を省くことを躊躇します。なお、Wikipedia‐ノート:出典を明記する#やはり原則として脚注機能を使う事を明記すべきでは?にはShazさんの2008年8月29日 (金) 11:25 (UTC)の書込みがあります。私にとっては理想とするモデルが示されています。--Sweeper tamonten 2009年4月23日 (木) 12:53 (UTC)返信
この提案については130.54.130.237さんから意義に関する質問がありました。これについて回答し、それについての発言はありませんでした。それからも七日が経過し、他に異論の提示もありませんでした。所定の過程を終了しました。他の提案の結果とあわせての編集を行います。--Sweeper tamonten 2009年5月1日 (金) 22:36 (UTC)返信

記事に貼り付けるタグについての提案

私は三つの提案を同時に提示し、そのうちの2つについて2つのタグで示しました。しかし、これは画面の領域を余計に使ってしまうため、今後は一つのタグの中に複数の提案が存在することを示したいと思います。実際には以下のような記述を置きたいと考えます。--Sweeper tamonten 2009年5月1日 (金) 22:36 (UTC)返信

{{告知|提案|<br>①[[ノート:百人斬り競争#関連文献の並びとISBN情報付加について|関連文献の並びとISBN情報付加について]]<br>②[[ノート:百人斬り競争#「戦犯裁判」の節の見出しを修正する提案|「戦犯裁判」の節の見出しを修正する提案]]<br>③[[ノート:百人斬り競争#参考文献の追加について提案|参考文献の追加について提案]]}}
一週間待ちましたが反論はありませんでした。所定の過程を終了しました。今後はこの方式を採用します。--Sweeper tamonten 2009年5月10日 (日) 22:54 (UTC)返信

2010年5月8日の大和屋敷さんの編集の差し戻しについて

ノートでの議論を経ずに行われた大和屋敷さんの編集(3回に分けておこなわれた)を差し戻しました。理由は以下に挙げるように、おもに細部の表現への疑問ないし違和感です。

  • 定義部分
    • 「また報道やそれにもとづく言論活動について、...」とありますが、この「言論活動」は、本多勝一の後年の記述(たとえば『中国の旅』)などを指すものという理解でよろしいでしょうか? そうだとすれば、この箇所は「言論活動」が、報道と同時代のものではないことを明示した方が、誤解がなく、好ましいのではないでしょうか。
  • 争点
    • 誰を斬ったのか元の報道記事によれば...」では、太字部分の直後に半角の空白がなく、列挙された他の文と不統一になっています。
    • 「一方で志々目彰手記や望月五三郎手記では...」の記述の時点で、両手記への言及は記事中でまだありませんので、書誌を注記するか、後述されることを示すべきであると思います。
    • 「独白」という言葉は、演劇の台詞や、ひとりごとを指して用いる言葉であり、ここでは意味が不明です。回想録の記述を指しているのであれば、適切な表現ではないと思います。
    • 「捕虜の虐殺(据え物斬り)を主張するのは望月手記であるが、1985年になって突然登場した回想録であり、筆者が百人斬り論争の経緯を知る状況にあり、裁判上ではその証拠能力が争点となる。」は、「...あり」の句が重なって文意がとりにくいと思います。また、「裁判」は、後述の「訴訟」で記述された名誉毀損裁判を指しているのかと思いますが、「となる」と現在形で書かれていることもあって、読んでいて他に裁判があるのかと一瞬戸惑いました。また、「訴訟」の項目に、望月手記の証拠能力がどう争点となったのかの記述がないため、結果的に中途半端な記述に終わっているような印象を与えます。
  • 訴訟
    • 「再審請求がない限り名誉毀損案件は結審したことになるが、...」とありますが、「結審」とは、判決以前に必要な訴訟手続きが終了することを指す言葉です。再審請求の有無にかかわらず、「結審」したからこそ判決が下っているわけです。おそらくおっしゃりたいことは、名誉毀損について再審がない限り、この問題が法廷で取り上げられることが見込めないということかと思いますが、いずれにせよ表現を推敲していただく必要があると思います。
    • 「...事実研究は現在も議論が続けられている。」と結ばれていますが、これは「訴訟」の節にあると裁判の事実認定(「一見して明白に虚偽であるとまで認めるに足りない」など)について議論がある、と言おうとしているような印象を与えます。そのような意味で書かれているのであれば、より明確にそう述べた方がよいと思います。そうではなく、「百人斬り」をめぐっての、その有無などの事実関係の議論を指しているのであれば、誤解がないような書き方に改められるべきかと思います。

以上、全体を通して大和屋敷さんの加筆の大意について異を唱えるものではないことを申し上げた上で、推敲の上での編集の再提案をお願いしたいと思います。--山田晴通 2010年5月8日 (土) 12:00 (UTC)返信

基本的に出典情報を提示しない投稿部分は単なるアヤの部分ですので、気に入らなければどんどんリバートしてください。気が向けばそのうちに。貴殿を説得して記事を復帰しても何の意味もないので(←これ本心)--大和屋敷 2010年5月8日 (土) 12:40 (UTC)返信

2011年7月13日(水)17:33版

ティルマン・ダーディンの1989年文芸春秋インタビューについて投稿がありましたが、ダーティン記者が南京事件に関して発した記事(1937.12.18-1938.1.9)では百人斬り競争について言及はなく、また東京裁判での証言でも言及は無かったと思います。この場合、ダーディン記者の1989年文芸春秋におけるインタビューは(彼の1937.12.18-1938.1.9記事の信憑性を検討するには充分な証言ではありますが)、百人斬り競争についての信憑性を検討する材料としては概論的・一般的評論となってしまいますので、ここでは引用するのは適切ではないと考えます。--大和屋敷 2011年7月13日 (水) 18:40 (UTC)返信

南京までの道で起こったとされることであり、同じ時期、同じ地域にいた海外のマスコミ関係者が百人斬りどころか虐殺行為は聞いたこともないというのは、否定論になると思うんですがね。確かに百人斬りとは言ってないので直接的ではありませんが。--220.209.151.64 2011年7月13日 (水) 20:43 (UTC)返信

ローカルルールについての問題提起

こちらのローカルルールについて、Wikipedia:井戸端/subj/「ノート:南京事件 (1937年)」他のローカルルールについてで問題提起をしましたので、お知らせします。--Dwy 2011年8月22日 (月) 17:48 (UTC)返信

上でご案内しました議論の結果、今のルールについて疑問・問題があることで意見の一致を見ました。更に、Wikipedia:井戸端/subj/「ノート:南京事件 (1937年)」他のローカルルールについて#提案においてローカルルールの撤廃が提案され、現在のところどなたからも異議が出ていませんので、ほぼ合意形成ができたといってもよい状態になっています。
しかし、ローカルルール廃止の手続き論としては、「ローカルルールが不適切で不要と思うのなら個々のページでそれを議論すればよい」というご意見があり、井戸端での合意形成だけでは手続きが不充分かもしれないという疑義があります.
つきましては、こちらのローカルルールの撤廃を、再度こちらでも提案させていただきます。撤廃の理由等に関するこれまでの議論につきましては、井戸端の議論をご参照ください。
ご意見がおありの方は、こちらにでも、井戸端の議論の方にでも、どちらでも結構ですので、コメントをお願いします。--Dwy 2011年9月11日 (日) 04:49 (UTC)返信
特に異論がありませんでしたので、ローカルルール撤廃の合意が成立したものとして、ノートページ冒頭のローカルルールの表示を除去します。--Dwy 2011年9月19日 (月) 16:32 (UTC)返信

2012年2月5日(日)01:36版について

事実の叙述と投稿者の評論が区別できていないいくつかの点がありリバートしました。以下指摘します①「百人切り名誉毀損裁判」の当事者は旧日本軍少尉2人の遺族です。あたかも「稲田朋美ら」が当事者であるかのように解釈したり「なかった派」が「全面敗訴」したかのように解釈しているのは投稿者の評論になります。ウィキペディアは百科事典です。事実を記述してください。②南京軍事法廷での事実関係の紹介箇所については出典が必要です。記憶だけを頼りに投稿されたのなら出典情報を探すようにしてください。③「日本刀で戦って敵兵百人を倒した」ことは事実ではないことは双方の見解の一致を得ている」の根拠が不明です。投稿者の独自評論と判断しましたが出典があれば追加してください④肯定派・否定派の要約は誤りです。肯定派には「この記事のようなことはあっただろう」という穏健な論者から、「戦闘中の殺害はほとんどなく、大半が民間人虐殺だ」とするものまでハバがあり、否定派は「毎日新聞の記事は戦意高揚目的記事であり真実を表現していない」というものです。毎日の捏造だなどとバカな意見を述べている論者をご存知ならば、出典付でご紹介ください。とりあえず以上5点。--大和屋敷 2012年2月5日 (日) 08:12 (UTC)返信

出典も何もないでしょうに

閲覧者が誤解を抱かないように追加した部分について花蝶風月雪月花警部さんから要出典のタグをつけられましたが、 ウィキペティアにもあるように軍法会議を起こせるのは師団長以上の上級軍人ですし、上官が命じたことを実行した場合部下は基本的に罪に問われないのはハーグ条約に明記されています。 何を求められているのかが分かりません。 話は変わりますが、ノートページいい加減整理した方がいいんじゃないですか?--Nenso会話2012年8月22日 (水) 16:48 (UTC)返信

リバートについて

自説に都合のよい事実を挿入し、都合の悪い出典付情報を削除する編集が行われましたので、過渡的にリバートいたしました。編集は中立的に、また確認できる出典つき情報は、仮に自説に都合が悪くても任意に削除しないようお願いいたします。--大和屋敷会話2013年3月18日 (月) 15:42 (UTC)返信

出典の有る記述を削ったというのはどこでしょうか?再構成はしましたし、出典のない独自研究は削除しましたが、出典のある記述を削ったというのはどこでしょうか?というか、堂々と出典つき情報を削除して何を言ってるんですか?「自説に都合がいい」とか「都合が悪い」とか、どうもwikipediaが何であるのかを理解されていないようなので、まずはwikipediaの方針を熟読することをお勧めします。--東中野花道会話2013年3月18日 (月) 15:48 (UTC)返信
というか、仮に「自説に都合のよい事実」「都合の悪い事実」があるとして、「自説に都合のよい事実を挿入すること」の何がいけないのでしょうか?出典をきちんと明記していますし、事実は事実なのだから、挿入することに何の問題もないと思いますが。--東中野花道会話2013年3月18日 (月) 16:06 (UTC)返信
  • 改善されておりません。自説に都合のよい事実を挿入し、都合の悪い出典付情報を削除する編集はWikipedia:中立性ルールに抵触しており、過渡的に差し戻しました。東中野花道さまはウィキペディア編集ルールをご一読のうえ、適切に編集を行うようお願い申し上げます。--大和屋敷会話2013年3月19日 (火) 00:24 (UTC)返信
ですから、私がいつ出典のある情報を削除しました?「意見を事実として記さない。」 「深刻な論争がある主張を事実として記さない。」「判断を下さない表現が好まれます。」「対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す」どれに違反しましたか?私は、争点のある問題について、原告側の主張も被告側の主張も出典を明記して書きました。『以後、2010年現在に至るまで南京事件について虐殺「あった」派から「百人斬り競争」が言及され、虐殺「なかった」派は「肯定論の非論理性」を指摘するという構図となっている。』あなたの、このような出典もなく対立するどちらかに肩入れする独自評論こそが中立性を侵害しているんじゃないんですか?--東中野花道会話2013年3月19日 (火) 09:02 (UTC)返信
あなたの、「1.出典のある情報を一方的に削除し、出典のない独自研究を追加する行為」「2.ノートで質問に答えず、一方的に編集を強行する行為」はWikipedia:投稿ブロックの方針の要件「7.宣伝・広告や政治的その他の一方的主張となる記事の投稿」と「8.1 ノートページや各種依頼ページにおける議論の拒否や妨害」に該当します。これ以上そのような不誠実な行為を続けるのなら、投稿ブロック依頼を提出します。それが嫌なら、「1.あなたが一方的に削除した情報は中立性のどの項目に違反しているのか」「2.あなたが一方的に追加している出典の無い情報はなぜ中立性を侵害していないのか」について、明確な回答をお願いします。--東中野花道会話2013年3月21日 (木) 00:49 (UTC)返信

大和屋敷殿の編集について

大和屋敷殿が削除した情報

1938年に野田少尉は鹿児島に帰還し、「最終的に374人の敵を斬りました。」と語っていることを鹿児島新聞(3月21日)、鹿児島朝日新聞(3月22日)が報じている。

この情報は、「1,出典が明記されている」「2.そのような情報が当該新聞で報道されたことは歴然たる事実であり、なんら中立性を侵害することはない」ゆえ、理由なく削除するこは問題行為だと思われる。

大和屋敷殿が書き加えた書き込み

以後、2010年現在に至るまで南京事件について虐殺「あった」派から「百人斬り競争」が言及され、虐殺「なかった」派は「肯定論の非論理性」を指摘するという構図となっている。

このような書き込みは、「1,根拠となる出典がない評論である」「2.「あった派」が根拠もなく放言し、「なかった派」が根拠を持って反駁している、という(根拠のない)先入観を与える「なかった派」に肩入れした書き込みである」という理由から、問題のある書き込みだと思われる。

  • 以上の2点より、大和屋敷さんの書き込みは極めて問題のある書き込みであり、ノートで対話に応じず一方的に編集を強行する氏の姿勢は不誠実であると言わざるを得ないと思います。--東中野花道会話2013年3月22日 (金) 14:38 (UTC)返信
  コメント 1点目に関しては当時の新聞に書いてあるということですよね。書き加えることには特に問題は見当たらないです。「概要」節にはもともと当時の新聞報道の話が載ってますし。
2点目は、論争に関する解釈に当たるので、ウィキペディア編集者が独自に行うべきではなく、出典が必要です。{{要出典}}か{{独自研究範囲}}を付けて、一定期間待っても出典が付かなければ除去でよいかと思います。--Bugandhoney会話2013年3月26日 (火) 18:24 (UTC)返信
  • 一向にご理解いただけていなかったようなので当方のほうで編集しました。当方は信頼できる情報源から加筆されている記事を「削除をするな」と言っているのであって、東中野花道さんに「加筆するな」と要求しているわけではないのですよ。そのような要求をしていましたか?東中野花道さんによる編集は任意で元記事の情報が削除されており問題があるので過渡的にリバートし、適切に編集しなおすことを要請していただけのことです。--大和屋敷会話2013年3月29日 (金) 07:59 (UTC)返信

その後、1938年に野田少尉は鹿児島に帰還し、「最終的に374人の敵を斬りました。」と語っていることを鹿児島新聞(3月21日)、鹿児島朝日新聞(3月22日)が報じている。野田は3月24日には神刀館で百人斬りの講演を行っている。<ref>鹿児島朝日新聞3月22日</ref>

という箇所ついて疑義があるのですが、野田少尉が行ったとされる3月24日の講演について、どうして3月22日の新聞で報じることが可能なのでしょうか?Takabeg会話2014年9月2日 (火) 11:49 (UTC)返信

関連する新聞記事について、こちらにまとめてありますのでご覧ください。http://www.geocities.jp/yu77799/siryoushuu/nankin/hyakuningirikiji.html 疑問は、すぐに解消すると思います。ゆう(matunami)会話2014年9月5日 (金) 13:09 (UTC)返信
いずれにしても、3月22日付鹿児島朝日新聞が3月24日の野田の講演を報じるのは物理的に不可能なので、現在の版ではまずいです。ソースと本文が矛盾しているため、仮にごそっと削除されても不思議ではないと思います。また、細かいことを申しますと、Wikipediaの情報源を見ると新聞は「二次資料」にあたりませんので、「野田が3月24日に神刀館で百人斬りの講演を行ったことをXX新聞(Y月Z日)報じている」とするか、「二次資料」を追加して「講演を行っている」とするのが得策であると考えます。Takabeg会話2014年9月10日 (水) 22:05 (UTC)返信

独自研究

原文記事(東京日日新聞)からの要約を独自研究として除去された方がおられましたが、どのような主旨によるものか判然としませんでしたので、過渡的に原文記事からの要約箇所をすべて除去しました。この編集方針について提案がある方は議論に参加下さい。--大和屋敷会話) 2013年4月20日 (土) 03:39 (UTC)まず個人的な感想を申し述べれば、末尾の外部リンクを見れば読者には十分ですので、一見すると大胆な削除にみえましたがあんがいこちらのほうがスッキリして良いのではないかとの編集感想を持っております。原文からの要約引用ですとどうしても編集者がどの箇所を引用してくるかにより文脈の印象が変ってしまいますので中立性の観点からも好適ではないかと考えます。--大和屋敷会話2013年4月20日 (土) 03:44 (UTC)返信

「どのような主旨によるものか判然としませんでしたので」では「原文記事からの要約箇所をすべて除去しました」の理由になりません。いくらなんでも無茶苦茶です。
「原文記事(東京日日新聞)からの要約を独自研究として除去された方」というのは私のこの編集のことを言っていると思いますが、「南京入城後に始めたわけではない」、「『敗残兵』を殺傷したことをうかがわせる記述はない」、「『非戦闘員』『民間人』を殺傷したことうかがわせる記述はない」のような記述が原文記事に存在しないのは一目瞭然で、これらがウィキペディアンの解釈・分析(つまりは「独自研究」)なのは明らかだと思います。大和屋敷さんのようなベテランの方から「どのような主旨によるものか判然としません」と言われたのは、私にとってかなり意外でした。
大和屋敷さんがご指摘の「中立性」を問題にするなら、むしろ「概要」節冒頭の「この競争の模様は、『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』(現在の毎日新聞)の、1937年11月30日付、12月4日付、12月6日付、12月13日付によって報道された」の妥当性を問うべきでしょう。『大阪毎日新聞』と『東京日日新聞』の記事に書かれているのが「百人斬り競争」だと規定してしまって良いのなら、大和屋敷さんが除去された記述は、私の見る限り、それなりに正確な要約になっていたと思います。--Dwy会話2013年4月26日 (金) 13:08 (UTC)返信

「惨殺」と「斬殺」

本文中にしばしば「日本刀で惨殺した」というような表現が出てきます。「斬殺」であれば意味はわかるのですが、「惨殺」とするのは何故なのでしょうか。変換ミスではなく、「惨殺」なのであれば、それが「惨」であることを示す出典なりがあると良いと思います。一般に「惨」かどうかは主観に基づくものでしょう。(まあ、殺すこと自体が「惨」であるという価値判断もあると思いますが、この文脈ではそうではないということです。)例えばですが、(実際に日本刀で人を殺したことがないので私にはなんともわかりませんが)、首を一刀両断したなら「惨殺」ではなく、何回も刺したりなど苦痛がすごいとか事後の状況が「惨状」と形容できるほどむごたらしいとかいえば「惨殺」なのかなあとか、そういうことです。もちろん、一瞬で苦痛なく死に至らしめたとしても、首を一刀両断した後の状況というのは、現代の私の感性ではじゅうぶんに「惨状」なので、そうであるならば、いかなる場合であっても日本刀を用いて殺害に及んだのであれば、いずれの場合も「惨殺」になるのかもしれませんが、それはあくまでも現代の私の主観なので、日本刀が武器として一般的でなおかつ戦争中のことであれば、また違った感性がはたらくだろうとは思います。--零細系統保護協会会話2013年9月9日 (月) 06:57 (UTC)返信

すみません、これは私の誤記だと思われます。「斬殺」に書き換えました。--たんたたたぬき会話2013年9月19日 (木) 10:25 (UTC)返信

リンク切れのサイト

インターネット・アーカイヴに残っているのですが文字化けして読めません。読む方法がわかる方、ご助言ください。Takabeg会話2014年9月18日 (木) 01:06 (UTC)返信

「愛国」の技法

この編集で追加された「この競争は地元で英雄譚として、大いに称賛された。鹿児島市草牟田尋常小学校の副教材で百人斬り競争をとりあげ、「血湧き、肉踊るやうな、朗らかな話であります」と絶賛している」のソースとして提示されている、早川タダノリさんの『「愛国」の技法: 神国日本の愛のかたち』(青弓社)なのですが、同書を確認してみたのですが見当たりませんでした。また、同書は戦前・戦中の写真、ポスター、絵葉書などパブリックドメインになっているもの (だから「タダ乗り」なのかなあとも思いましたが)に著者の個人的な感想を加えたものです。スタンスとしては北朝鮮や韓国などの「トンデモ文化」を茶化す出版物などに類似しています。読み物としては面白いですし、「ロリ系慰問はがきを戦地に送ろう」と「脚線美美女に軍事教練してあげよう」の部分はスキャンさせていただきましたが、信頼できる情報源にあたるかどうかはなはだ疑問です。133.218.135.60の編集は一つだけである上、その信憑性が極めて低いため、編集をすべて削除させていただきました。Takabeg会話2014年9月23日 (火) 02:34 (UTC)返信

追加です。先ほど本を読み直したら"近所の「日の丸おぢいさん」を大切にしよう"という節の「日の丸おぢいさん」のキャプション部分 (小さい文字で)で、草牟田尋常小学校編『軍国に咲いた花 少年少女たちにおくる支那事変の読物』で「血わき、肉おどるような、ほがらかな話であります」と紹介されている、と紹介されているのを確認できました。どうしましょうか?個人的には信頼できる情報源でないとしてはじくのが適切だとは思いますが、日本語版ウィキペディアにはen:Wikipedia:Reliable sources/Noticeboardにあたるものが無いようで、悩ましいところです。Takabeg会話2014年9月24日 (水) 06:09 (UTC)返信
出典が確認できたのなら載せるべきでしょう。引用している本が茶化す本であろうと、引用元には何ら変わりはないわけですから。--たんたたたぬき会話2014年9月30日 (火) 00:24 (UTC)返信

カテゴリについて

Category:百人斬り競争、これ必要でしょうか? 直接関係する記事は少なく、大半は「百人斬り競争 の有無の論争」に関る人物です。洞富雄に至っては、記事内に該当の記述すらありません。過剰なカテゴリだと判断します。--JapaneseA会話2014年9月23日 (火) 07:37 (UTC)返信

百人斬りは正確に理解されていない問題の一つです。同カテゴリが作成される以前、この記事にはCategory:南京事件 (1937年)Category:毎日新聞社の歴史が付けられていました。「南京事件」」とこの「事件」を結びつけようとする人々や国々もあるのですが、南京事件 (1937年)との関連性は、主張できますが立証できません。さらに、百人斬り競争が報道されたのは (後追い記事を除くと)、南京入城前ですので、厳密にいえば、Category:百人斬り競争Category:南京攻略戦の下位カテゴリにするのも正しくないのかもしれません。そのため、カテゴリは大変有益だと考えます。記事内に該当の記述が無いことを確認し、不要であると思ったら、その記事から外していただいてかまいません。Takabeg会話2014年9月23日 (火) 07:59 (UTC)返信
論点がずれているようです。Category:南京事件 (1937年)Category:毎日新聞社の歴史の除去と、新カテゴリ作成は別問題です。「Aというカテゴリから除去する代わりに、Bというカテゴリを新規作成し、それにカテゴライズしなければならない」という事はありません。カテゴリが不適切であれば、上位カテゴリ(「日中戦争」とかあるはずです)に含めてしまえば良いのです。評論している人達の記事をカテゴリに含めるのは過剰なカテゴライズです。これらを記事から外すとなると、結果として大半の記事から外す事になります。また、一事件をいちいちカテゴリ化していてはキリがないと思います。これに匹敵する事件は山のようにあると思いますので。--JapaneseA会話2014年9月23日 (火) 09:02 (UTC)返信
実際にあなたが関係ないと信じる記事からこのカテゴリを除去してもコアの関連記事がカテゴライズされた形で残ります。Takabeg会話2014年9月23日 (火) 09:20 (UTC)返信
過剰なカテゴリであり不要でしょう。国内外で大きな論争になっており様々な立場から研究が行われている南京事件 (1937年)Category:南京事件 (1937年)のサブカテゴリとしてCategory:南京事件 (1937年)の研究者Category:南京事件 (1937年)の研究団体‎まである)とは異なり、本件の論争に関わる人物などをまとめたところで何の役にも立ちません(上告審を担当しただけの今井功 (裁判官)や作中の一トピックとして取り上げただけの国が燃えるまでカテゴリに入ってるのは何の冗談なんだか)。残るのは事件記事である百人斬り競争、当事者である野田毅 (陸軍軍人)向井敏明、これに由来する百人斬りの歌くらいであり、カテゴリの有用性はありません。Category:百人斬り競争は削除し、事件記事をCategory:南京攻略戦Category:毎日新聞社の歴史に、野田、向井両名の記事をCategory:南京攻略戦の人物に入れておけば十分でしょう。--Claw of Slime (talk) 2014年9月23日 (火) 09:29 (UTC)返信

  報告 除去に合意できたと判断し、研究している人物をカテゴリより外しました。残り4記事は、私の一存では消せないでの、そのままとしてあります。--JapaneseA会話2014年9月23日 (火) 09:44 (UTC)返信

  各位様へ。あくまでカテゴリは除去すべきという意見に変わりはありませんが、削除依頼提出までは考えていません(提出されれば投票はするかもしれませんが)。また、カテゴリを削除した場合、各記事をどのカテゴリに入れるのか?は意見を保留します。
Takabeg様へ。カテゴリ作成とその範囲については、関連する記事のノートなどで合意を形成されてから行うべきでしょう。最近も韓国関連のカテゴリで苦言が出ています、御注意下さい。
--JapaneseA会話2014年9月23日 (火) 18:48 (UTC)返信
件のカテゴリについては、利用者‐会話:JapaneseAのPOVに従って除去してもとりあえず問題視しないことにしています。当方の目的は、本記事の充実と関連記事 (件のカテゴリに入る記事: 浅海一男佐藤振壽などなど)の充実を目的としておりまして、カテゴリもそれを補完するものと判断しておりますので、不要で不毛な論争は可能な限り避けたいところです。Takabeg会話2014年9月23日 (火) 23:46 (UTC)返信

鹿児島の新聞

これらの報道記事はあくまでも東京日日新聞の後追い記事ですので、冒頭にあった鹿児島の新聞記事(複数)を[注釈]部分に移しました。また、鹿児島の新聞記事(複数)の昭和13年に入ってからの報道記事は、独自記事ですので地の文に残しました。Takabeg会話2014年9月23日 (火) 23:46 (UTC)返信

「これらの報道記事はあくまでも東京日日新聞の後追い記事」これは何を根拠に言っているのですか?事実は「それらの新聞で報道された」ことであり、「これらは後追い記事である」はただの独自評論です。--たんたたたぬき会話2014年9月30日 (火) 00:30 (UTC)返信
「これらは後追い記事である」はただの独自評論などではありません。『南京「百人斬り競争」虚構の証明』241頁にははっきりと「東日の後追い記事」と書いてありますし、『南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌』52頁ではリストにあるだけで解説もされていません。3月の鹿児島の各紙の記事については「野田少尉が日本に帰国してからの国内インタビュー記事などである」との解説が付されています。鹿児島の各紙が特派員を派遣して独自の記事を書いていたということがわかったならば状況は変わってくるでしょうが、現時点で判明している事実は、これらが後追い記事であるということですから、冒頭部分で『大阪毎日』と『東京日日』と並べて書かれるべきではありません。また、昭和13年1月『大阪毎日新聞』鹿児島沖縄版の記事には特筆すべきものがあるので、論争の部分で触れるだけでなく、概要でも触れられる必要があるのではないか、と考えています。Takabeg会話2014年9月30日 (火) 07:40 (UTC)返信
「大阪毎日」「東京日日」も鹿児島新聞も両少尉からのインタビューを記事にしたのは全く変わりがないわけですから、前者2つが代表例というならわかりますが、それ以外を削るのはおかしいでしょう。3月に入ってからの記事でも、各紙が報道したのは「百人斬り競争」です。--たんたたたぬき会話2014年10月4日 (土) 03:23 (UTC)返信
3月の記事はよいでしょう。しかし、後追い記事である12月の鹿児島新聞、鹿児島毎日については、新聞本文で「大阪毎日」、「東京日日」と併記すべきではありません。さらに細かいことを申し上げますと、「鹿児島新聞」 (昭和12年12月18日)、「鹿児島朝日新聞」 (昭和13年3月20日)、「鹿児島毎日新聞」 (昭和12年12月16日)という順序で書かれているのも意味のあるものとは思えません。五十音順か何かでしょうか?それに、昭和12年12月に、「大毎小学新聞」、The Japan Adviertiserなどでも報道されていますし、探していけば同様に報道した他紙も見つかるかもしれません。そうなると、切りがなくなってしまいます。Wikipedia:スタイルマニュアル (導入部)にもあるように、導入部では、記事の概要を記して、読者にその記事の要点を示すことを目指しますから、基本的に「大阪毎日」、「東京日日」だけを入れるべきだと思います。鹿児島の新聞については、このページの上のほうでも議論されているようで、利用者:東中野花道(利用者:たんたたたぬきさんの旧名)さんが提起して、利用者:Bugandhoneyさんと利用者:大和屋敷さんが参加したようですが、さらに意見をつのってみましょう。Takabeg会話2014年10月4日 (土) 05:08 (UTC)返信

箇条書きか表組みで各新聞の発行年月日を揃えて比べられるようにしておくと、どの新聞が主導したのか後追いなのかを伝えやすくなると思います。そういう点からむしろ冒頭でそこまで細かくやるのは諦めて、冒頭は最初の段落で「~競ったとされる行為である。ただし内容の真偽などについて論争がある。」程度で止めて、二段落目以後は概要節に任せていいと思います。--Sureturn会話2014年10月8日 (水) 12:37 (UTC)返信

どうでしょう?私としてはご提案の線でもよい気がしますが。--たんたたたぬき会話2014年10月10日 (金) 14:35 (UTC)返信
特に反論もなかったので、Sureturn様ご提案の方針で修正しました。--たんたたたぬき会話2014年11月1日 (土) 07:18 (UTC)返信

志々目証言

利用者:Nensoさんに質問と相談があります。あなたはこの編集で月刊誌『中国』1971年12月号の記事を拡充させていらっしゃいますが、それだけお詳しいのであれば、何故野上堅一郎、成友節、辛島勝一各氏の証言に触れなかったのですか?現在の版では辛島証言にも触れられているようですので、現在の「肯定する根拠」と「否定する根拠」の部分を志々目証言、望月証言 etc.または、「南京で戦った人々の証言」、「鹿児島で講演を聴いた人々の証言」etc.などという具合に再構成するべきであると考えますが、いかがでしょうか?Takabeg会話2014年9月24日 (水) 00:17 (UTC)返信

出典の誤表記・誤使用その1

利用者:たんたたたぬきさんのこの編集についてですが、日本大学法学部の『政経研究』は年4回発行されており、「2006年2月号」というものは存在しません。お手元に論文があるならば訂正しておいてください。Takabeg会話2014年9月30日 (火) 09:24 (UTC)返信

|このリンクを見ていただければ分かりますが、「いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(2)」が収録されている42巻第4号は2006年の2月に発行されております。「存在しない」とは何を根拠に言っているのでしょうか?--たんたたたぬき会話2014年10月4日 (土) 03:07 (UTC)返信
2月号が存在しないという事実を言いました。存在しない「号」を書いてしまうとウィキペディアの信憑性が更に低下してしまいます。Takabeg会話2014年10月4日 (土) 05:03 (UTC)返信

出典の誤表記・誤使用その2

利用者:222.13.239.113さんのこの編集についてですが、日本大学法学部の『政経研究』の42巻は1991年に発行されていません。お手元に論文があるならば訂正しておいてください。「その他」の部分にも同内容の文章があるので、まとめてしまったほうがよいと思います。Takabeg会話2014年9月30日 (火) 09:32 (UTC)返信

これは私の編集ではありませんが、この「秦郁彦は野田の故郷鹿児島でインタビューを行い、野田自身が地元の小学校や中学校で捕虜殺害を自ら公言していたことを調べ、1991年に日本大学法学会『政経研究』42巻1号・4号に発表している」という文章は、1991年に、という文句を入れる場所を間違えていますね。正しい記述は、「秦郁彦は"1991年に"野田の故郷鹿児島でインタビューを行い、野田自身が地元の小学校や中学校で捕虜殺害を自ら公言していたことを調べ、日本大学法学会『政経研究』42巻1号・4号に発表している」です。(日本大学法学会『政経研究』に発表したのは2006年)--たんたたたぬき会話2014年10月4日 (土) 03:14 (UTC)返信

記事の検証、判決

一連の東中野修道+笠原+他の記事検証結果は、どうして消すのか。独自研究は一行も含まれていない。構成は独自のものだが、それは他の人も同じ。どうして消すのか?---総持庄一会話2015年11月10日 (火) 01:36 (UTC)返信

歴史と判決とがごちゃまぜ。野田、向井両方の記述で記事は事実だったと言いたいみたいだが。2年後に向井が話したという記事にあたってみたのか?その記事なぞ、会ったという事実(私の想像)以外、何も真実を伝えていない噴飯記事。こんな記事を向井が自分からしゃべっただのと、まともに取り合うのはおかしい。---総持庄一会話2015年11月10日 (火) 01:36 (UTC)返信

判決について。日本は講和条約を受け入れて独立を回復した。条約には極東裁判を受け入れる条項が含まれていた。条約は国内法に優先する。極東裁判の有罪を無罪にできない。極東裁判の判決文に収束させるように、日本の裁判所は判決した。裁判官が歴史を決めるなら、歴史家は要らない。歴史と判決を分けてくれ!---総持庄一会話2015年11月10日 (火) 01:36 (UTC)返信

「捕虜や一般民衆に対する殺害・・多数存在している」は、なぜ根拠になり得るのか。世に殺人が横行している。だから野田は殺したんだ、と言っているようなもの。これを載せるなら、私が書いた反論も載せてしかるべき。---総持庄一会話2015年11月10日 (火) 01:36 (UTC)返信

消したのは管理人だと思うが、正当な理由を付した返事がほしい。---総持庄一会話2015年11月10日 (火) 01:36 (UTC)返信

  • 利用者:たんたたたぬき (旧名: 利用者:東中野花道)さんはこの編集で要約欄に「編集者の主張、独自評論、関係のない話を削除」と書いて情報の大量除去を実行してしまっています。まず、「編集者の主張」は書かれていないように見受けられますが、どの部分がそれにあたるのかをノートにて指摘してください。次に、編集者の独自評論はおろか編集者の評論も入っていないように見受けられますが、もしあると考えるならば、具体的にノートに書いてください。最後に、「関係のない話」とはどの部分にあたるのでしょうか? いずれにしても腕ずくで解決しようとしないで問題点があると感じたならそれらを指摘したうえでコンセンサスを得るよう努めてください。あと、Wikipedia:記事の所有権も読んでいただくと他の利用者は助かると思います。
  • 総持庄一さんへ:利用者:たんたたたぬきさんは、管理者ではありません。そもそも管理者はルールを遵守しますから、こうした強引な編集はありえませんね。Takabeg会話2015年11月10日 (火) 03:57 (UTC)返信

「編集者の独自評論はおろか編集者の評論も入っていないように見受けられます」と管理人が判断しているなら、削除したのが不当だということ。こんな事が横行するなら削除のし放題だ。削除は一瞬。管理者の責任で元に戻し、勝手なことをやっている編集者をなんとかしてくれ。---総持庄一会話2015年11月10日 (火) 05:19 (UTC)返信

Wikipedia:管理者#管理者一覧を見てください。私は「管理人」ではありませんし、管理者でもありません。また、管理者に元に戻す責任というのもありません。当該箇所は除去されただけで削除されたわけではありませんので、ここを見て総持庄一さん自身が適切だと思った版に戻すこともできます。それでも、問題がおさまらないときはWikipedia:論争の解決に従って解決してみてください。Takabeg会話2015年11月11日 (水) 09:37 (UTC)返信

花蝶風月雪月花警部氏は、私の表現を修正しまくっている。その時それが最適だと判断してそう書いたのだから、それを尊重してくれないかなー。ある文なぞ、句読点まで修正の対象になっている。私は小学生か。「朝日新聞と裁判所はちがった」は事実だろう。そうじゃないのか?「何故か裁判所」は、裁判所批判とも言えない表現だが、裁判所は批判の対象にしてはまずいのか?「浅海記者は・・矛盾を抱えることになった」は、穏当な表現にした結果だ。浅海記者はあちこちで嘘をつきまくっている。「取材手法について、・・・と批判した」は、意味が通じない所あり、「批判した」が2度出てくる。修正には、理由があれば対応するつもりだが、なんで勝手に修正するかねー。---総持庄一会話2015年11月12日 (木) 07:04 (UTC)返信

  コメント 私の編集は、文章を百科事典に則した表現に修正したものである。ウィキペディアは利用者のエッセイや評論を記述する場所ではない (WP:NOTESSAYWP:NOTOPINION)ので、御自身の感情や考察を挿入しないようにお願いします。--花蝶風月雪月花警部会話2015年11月12日 (木) 13:46 (UTC)返信

花蝶風月氏はもっともらいい事を言いながら、私の書いた文をずたずたにし、勝手に気書き直している。これによって焦点をぼかし、責任の所在をあいまいにしている。要するに東京日々、朝日新聞、本多勝一に有利に導くことを目的に、こんなことをやっている。本多の応援団でもいいが、卑怯なことをするな!こんなことやってると本多の評判も悪くなるだろうに。---総持庄一会話2015年11月12日 (木) 18:32 (UTC)返信

総持庄一氏の編集について

  • "肯定側の主張"節
  • 「遺書は本多勝一によると、互いに罪をなすりつけ合っている。」は、典拠が示されていないため除去した。
  • "否定側の主張"節
  • 志々目彰氏の回想記への批判は、内容について直接言及した典拠が皆無のため除去した。
  • 下記の文章は、誰が発したものなのか典拠が示されておらず、総持庄一氏の感想や解説の類にしか見えないため除去した。
「この訊問記録の発掘によって、浅海記者は自身の問題として矛盾を抱えることになった。」
「朝日新聞と裁判所はちがった。」
「何故か裁判所は証人を一人しか認めなかった。」
「と言われる所以か。」
  • 佐藤振壽氏の証言(氏が2少尉と浅海記者の会見内容に対して抱いた疑問)が除去されていたため復帰した。

総持庄一氏に対し、Wikipedia:検証可能性Wikipedia:中立的な観点Wikipedia:独自研究は載せないWikipedia:ウィキペディアは何ではないかを読んだ上で編集をおこなってもらいたいと強く希望するものである。--花蝶風月雪月花警部会話2015年11月30日 (月) 13:42 (UTC)返信

両少尉と同じ大隊(歩兵9連隊第3大隊)の大野少尉(第3大隊第9中隊第1小隊)陣中日誌に拠り東中野修道が検証 (中略)11日戦況は進展しなかった[12]、とある。

この部分、話に関係ないですよね?少なくても、これは「当時の報道」ではありません。 挿入する意味がわかりません。 あと、「高い評価を受けた」という文言はWikipedia:大言壮語をしない に抵触します。

北村稔は、(中略)死刑判決が下ったとしている

日本語が変です。「下ったと主張している」でしょう。

山本(中略)論争を『死人に口なし』に逃げ込んで、今後相手はご免被ると一方的に打ち切った」

山本七平氏の「私の中の日本軍」と鈴木明氏の「南京大虐殺のまぼろし」のことを言っているのでしょうが、 時系列がおかしいです。両方とも書いてある箇所がすぐ下にあるのだから、そちらに書くべき。 それから、「本多は論争を一方的に打ち切った」というのは事実に反しますし、 (論争の打ち切りを宣言したのは山本七平) 原告サイドを称揚し被告サイドを批判(というより中傷に近いレベル)する原告側の書いた 文章をそのままwikipediaの文章にするというのは、Wikipedia:中立的な観点に反します。

臼井吉見「特派員の署名記事で、銃後の話題を賑わそうとの特ダネゲームの与太ばなしであった・・」、開高健「ジャーナリズムの幼稚と無責任をうまくついた作品で・・もっと正面から告発してもよかった」、小田実「百人斬りというような事件は、真実には、それ自体はたしかになかったものにちがいない」

ここに「南京大虐殺のまぼろし」を評価する文章を載せる必要があるのでしょうか? 「南京大虐殺のまぼろし」の項目にも同様の文章がありますし、 論争について一つの本にひいて評価をする文章を載せるのなら、同量の批判する文章も 載せなければ中立性の侵害ですし、一つの本について全部そういうことをしていたら 無秩序に文章が膨れ上がっていくだけではないでしょうか?

「肯定側の主張」「否定側の主張」ですが、「肯定側の主張」側が 肯定的な資料の紹介という客観的なものに対して、 「否定側の主張」側はまさに「主張」(裁判の判決で明確に否定された原告側の主張も多く含まれる)です。 あと、否定側の主張は量が多すぎます。 総持庄一氏は原告側に対する応援の気持ちを強く表明していて、wikipediaの項目を原告(否定側)の主張で 埋め尽くしたいのだと思いますが、 Wikipedia:中立的な観点に、

論争の余地のない主張を単なる意見として記さない。

対立する観点との相対的な勢力差を正確に示す

とあります。 「裁判で正しいと判定された被告側の方が受け入れられている説である」 という気はないですが、「肯定側の主張」と「否定側の主張」はせめて同文章程度にすべきではないでしょうか。 それと、「肯定側の主張」というタイトルと内容(主張は入っていない)が一致していないので、 タイトルは「肯定する根拠」に戻すべきかと思います。

”民衆に対する殺害”に、次ぎの留意はあっていいだろう。

独自評論です。


そんなことも有ってか、記事を書いたのは光本記者と言われていた。だが、名誉毀損訴訟中に東京裁判の訊問記録が発掘される。

独自評論です。東京裁判の尋問記録は裁判前から知られていました。

被告側の主張で、引用する遺書全文はこちら

両少尉自身が、遺書等で両少尉が記者に話したと記していることは、判決で認められています。 判決で認められた被告側の主張にわざわざ「被告側の主張」と書き、 判決で却下された原告側の主張をあたかも客観的な真実のように書くのは、 中立性に反します。--たんたたたぬき会話2015年12月5日 (土) 02:30 (UTC)返信


花蝶風月氏に反論

  • 「直接言及した典拠が皆無のため除去した」とは妙な言いがかり。直接とは何を以て言うのか。あらゆる重要と思われる情報を提供して読者の判断材料にするのは、論述の基本。この場合、志々目は「極東裁判が開かれた・・・(銃殺は)当たり前だな」と言っている。「(銃殺は)当たり前」という結論を導いたのは、文章の論理構造から、「極東裁判」の理解が大きな要因であることが分かる。それが検閲による報道規制によって大きく歪められていたとなれば、読者にその情報を提供する。これがあると本多側に都合が悪いのか?再度いう。卑怯なことはするな。
  • 「矛盾を抱えることになった」は、事実そうだから。矛盾していないとでも言うのか
  • 「朝日新聞と裁判所はちがった」。これも事実。そうじゃないとでも言うのか。
  • 「何故か裁判所は証人を一人しか認めなかった」は出典明示する
  • 「と言われる所以か」は後述に改良。
  • 佐藤振壽の証言―1項目目は否定側の主張3で既に述べられている。特に佐藤振壽しか出来ない内容ではない。自分が書いたものは大層な扱いで、人が書いたもの削除のし放題か。

自己の公平を言いながら、肯定論には何の制約も課していない。

  • 「・・・浅海、光本、安田、鈴木記者が創作した』と主張したが」は出典が示されていないが、花蝶風月氏はなぜ削除しない?
  • 「1947年の夏、ともに陸軍少佐・・・南京軍事法廷において住民捕虜虐殺の容疑で起訴された」は出典が示されていない。なぜ削除しない?
  • 「住民捕虜虐殺の容疑で起訴された」とは書かれてていない。削除希望。「虐殺した」罪でとは書かれていない。訂正したらどうか。
  • 「据え物斬りだった」と「推測している」はなぜ削除しない。推測ならなんとでも言える。本多が言えばいいのか。
  • 肯定側の主張ー3項目目は出典が挙げられていない。なぜ削除しない。

「Wikipedia:中立的な観点」はどこへいったのか。---総持庄一会話2015年12月7日 (月) 06:02 (UTC)返信


削除しろと言った。なぜ私の時と同じように削除しない。追加

  • 「野田少尉と同じ小隊に所属していた」出典がない削除希望。
  • 「否定するような証言はしておらず、むしろ自分の故郷などで武勇伝的に語」出典がない削除希望。
  • 志々目の件。再度いう。卑怯なことはするな。
  • 佐藤の記述「出廷した際、陳述書の中で」は妙な表現。これについての悪口は省略。

---総持庄一会話2015年12月8日 (火) 05:29 (UTC)返信

  • 「当時の報道ではありません」→後述に改良
  • 「高い評価を受けた」は出典明示する
  • 「北村稔は・・・下ったとしている」「主張しているでしょう」。この人がこう感じこう表現しているものを、こう直せと言うあなたの主張が理解できない。「脚色、事実の書き換え」は事実で、事実は主張しなくても事実。北村が言っていつことに根拠がない、論理の飛躍があるなら、本を読んでそう指摘すれば済む話。ちなみの、これは私が書いた文ではない。
  • 「一方的に打ち切ったというのは事実に反します」ならその典拠を示せ。
  • 「時系列がおかしいです。・・下にあるのだから、そちらに書くべき」。雑誌連載で論争が行われた。単行本が出るのはその後。、「鈴木明が出版し・・事実でなかったと主張した」は私が書いたものでないから、敢て直さなかった。主張はその前からしている。
  • 「原告側の書いた 文章をそのまま」「中立的な観点に反します」。肯定側の主張も被告側の言っている文章をそのまま載せている。これをどうするのか。この場は、主張し合っている場なのだから、原告の主張でも何も問題ないはず。
  • 「評価する文章を載せる必要があるのでしょうか」。文それ自体は、「百人斬り」を言ったもの2つ、南京事件報道に関しジャーナリズムへの警鐘を言ったものが1つ。どの機会に言おうが、当時の受け止め方が直に伝わってくる文章だ。小田実のは全然別の機会。
  • 「中立性の侵害です」。秦、洞富雄の肯定説だけだったのを、否定説を載せて中立を保ったんですよ。
  • 「裁判の判決で明確に否定された原告側の主張も多く含まれる」。それなら、裁判所はこう言った、と言えば済む話。
  • 「主張は量が多すぎ」「同文章程度にすべきではないでしょうか」。なかったことを証明するには難しい。あらゆる矛盾、祖語を衝かないと出来ない。それには分量がいる。それに対し、あった事は1つ記せば済む。あなたはその1つで十分余裕を感じていればいいだろう。
  • 「論争の余地のない主張」それを言ってくれて、納得すれば、私の書いた部分は応じよう。
  • 「根拠に戻すべき」。変更したのは、仲間の花蝶風月だ。
  • 「民衆に対する殺害”に、次ぎの留意はあっていいだろう」評論だとは思わないが、変えてみよう。
  • 「尋問記録は裁判前から知られていました」埋もれていたのを「発掘した」。変なところはないが、なんなら変えてもいい。「光本記者」出典は挙げられるが、削除したほうがいいだろう。
  • 「遺書全文はこちら」は読者に判断を下す材料を提供している。これになぜ文句が出るのか。「判決で却下された原告側の主張をあたかも客観的な真実のように書く」はどのこと。注釈に「遺書全文」を書いただけなのだが。

直すのに時間がかかるが、もう少し待っていただきたい。----総持庄一会話2015年12月8日 (火) 06:11 (UTC)返信

総持庄一さんと花蝶風月雪月花警部さんへ、編集の履歴を見ると、御両名の「プチ編集合戦」のような様相を呈しているように見受けられます。ノートを使用している点はよいのですが、議論がかみ合っていない様子ですよね。現在、総持庄一さんの作業が継続しているので、とりあえず書いていただいて、ある程度まとまったところで、検証して問題点を指摘するという形にしてはいかがでしょうか?それと、総持庄一さん、現在加筆にあたり使用している資料を具体的に列挙していただけませんか? 恐らくは私も所有しているはずですので、優先的に時間を割いて検証作業にお付き合いさせていただきたく思っております。それでは。Takabeg会話2015年12月8日 (火) 14:43 (UTC)返信

  • 『南京事件』秦育彦
  • 『「南京大虐殺」のまぼろし』鈴木明
  • 『南京「百人斬り」の真実』東中野修道
  • 『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司
  • 『百人斬り裁判から南京へ』稲田朋美
  • 『「百人斬り訴訟」裁判記録』百人斬り訴訟を支援する会
  • 『本当はこうだった南京事件』板倉由明
  • 『南京戦史』偕行社---総持庄一会話2015年12月9日 (水) 02:59 (UTC)返信

追加


変更点を以下に---総持庄一会話2015年12月9日 (水) 07:46 (UTC)返信

  • [報道を検証]として別項目に立項
  • 「高い評価を受けた」にレファレンスを追加
  • 本多はこの論争を『死人に口なし』、『今後相手はご免被る』と一方的に打ち切った
  • 「その後、鈴木明が南京大虐殺のまぼろしを出版し百人斬りは事実でなかったと主張した」→「その後、鈴木は雑誌分載の主張をまとめた「南京大虐殺のまぼろし」を出版し、大宅賞受賞する」に変更
  • 「当時の著名著述家の反応」を挿入。
  • ”民衆に対する殺害”に、次ぎの留意はあっていいだろう → ”民衆に対する殺害”に関し、研究者は次の留意を記している。
  • 「そんなことも有ってか、記事を書いたのは光本記者と言われていた」削除。付けたしを入れ「句容の記事(6日付)も光本記者ではなく、浅海記者が書いたものと確認された」に変更
  • 「何故か裁判所は証人を一人しか認めなかった」 → 「何度となく、証人を調べてほしいと申し入れ、上申書も提出した。しかし裁判所は認めなかった」出典明示
  • 勝手に削除された「志々目彰の回想記」の記述を復活。「(銃殺は)当たり前」という結論を導いたのは、文章の論理構造から「極東裁判」の理解によっていると分かる。その裁判とはどんなものだったのか、読者に情報を提供するのは、大いに意味がある。
  • 「電話取材した稲田朋美に望月の親族は言った」これを花蝶風月氏はなぜか執拗に改変する。
  • 「秦郁彦は、田中正明が本多勝一を"無責任なレポーター"と評したことを紹介している」に変更

レファレンス付きで示すと-----------------------------------------------------

総持庄一氏の編集について(2度目)

  • 「報道を検証」の項は、要するに「報道は記者らの創作だったと主張する原告の主張は正しい」

と言いたいのでしょうが、でしたら「否定側の主張」に移動してください。

  • 「南京大虐殺のまぼろし」を褒める文章は、鈴木明の項に既にあるのだから、

そちらを参照する形にするべきです。明らかに冗長でしょう。

  • 「論争を『死人に口なし』に逃げ込んで、今後相手はご免被ると一方的に打ち切った」

は、これも「否定側の主張」なのだから、否定側の主張に移動してください。

議論の余地のない

判決文を引用します。 『両少尉自身も,その遺書等において,その内容が冗談であったかどうかはともかく,両少尉のいずれかが新聞記者に話をしたことによって,本件日日記事が掲載された旨述べている』

  • 「志々目彰の回想記(公演から三十数年後の発表)について」

要するに、「そのような左翼的な考え方を持つ志々目彰の証言は嘘に決まっている」と主張 したいようですが、そのように自分の主張をwikipediaに記載することを「独自研究」といい、 wikipediaが禁止していることです。

”民衆に対する殺害”に関し、研究者は次の留意を記している。

言い方を変えても独自研究は独自研究です。 そもそも、研究者って誰ですか? 本多が主張する「民衆に対する殺害」に反論している研究者がいて、 その研究者の反論を引用するのでなければ、それは独自研究というものです。


これにより記事は光本記者ではなく、浅海記者が書いたものと確認された。

独自研究です。 そもそも、光本、浅海の両名記載されている記事に対して浅海氏が「私が書きました」 と言っても、それは光本氏が書いていないという根拠にはなりませんよね?

  • あと何点か「弁護側」という箇所がありますが、これは「原告側」の間違いですね。
なかったことを証明するには難しい。あらゆる矛盾、祖語を衝かないと出来ない。それには分量がいる。それに対し、あった事は1つ記せば済む。あなたはその1つで十分余裕を感じていればいいだろう。

何か勘違いをなされているようですが、wikipediaはあなたの主張を載せるための場所ではありませんし、 私はあなたの反対の主張をしているわけでも花蝶風月雪月花警部氏の仲間でもありません。 分量がいるのなら、どうぞあなたのブログなりホームページなりで堂々となさってはいかがですか? --たんたたたぬき会話2015年12月12日 (土) 03:39 (UTC)返信

検証その1

1.「南京百人斬りの虚報で死刑戦犯を見殺しにした記者が今や日中かけ橋の花形」『週刊新潮』1972年7月29日号、36頁。

「そして記事にあるように、紫金山麓で二人の少尉に会ったんですよ。浅海さんもいっしょになり、結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな。あの紫金山はかなりの激戦でしたよ。その敵の抵抗もだんだん弱まって、頂上へと追い詰められて一旦ですよ。最後に一種の毒ガスである"赤筒"でいぶり出された敵を掃討していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは・・・・。そこで、あの記事の次第を話してくれたんです」とあります。

続きもあるのですが、鈴木二郎さんの記憶違いなのか、それとも嘘をついているのか、わかりませんが、鈴木さんの発言が史実に即していないのは確かなようです。ただし、「10日両少尉に、11日向井少尉に会ったと記事に書いた鈴木二郎記者は、」とありのはおかしいのではないでしょうか?鈴木二郎さんがどの記事に書いたのでしょうか?『週刊新潮』の編集部が書いたのではないでしょうか?

2.『南京事件』中公新書、2007年、279頁。

「ともあれ、『南京戦史』は最終的に中間派の立場をとったこと、資料集に軍関係の公文書や日記などの第一次資料を大量に収録したことで高い評価を受けた」とあるのは確かで、続けて原剛さん、板倉由明さんの功績を賞賛していますが、それは秦さんや中間派から見た評価になってしまう感じを受けますし、実際に「大虐殺派」や「マボロシ派」からは批判もあります。個人的には『南京戦史』は優れた業績であると考えていますが、ウィキペディア的には、Wikipedia:大言壮語をしないにはあたらないものの、Wikipedia:中立的な観点に若干抵触するような気がしますし、読者に先入観を与えてしまいかねないため、評価の部分は、南京戦史を立項して、そこで書くのがよろしいかと思います。また、信憑性の低いとの指摘があるソースについては脚注などで指摘する必要があると考えています。

3.『南京戦史』偕行社、1989年、91頁。

これは第四報に関する検証ですよね。向井、野田両少尉は、第16師団第9連隊第3大隊所属。「10日に高地を奪取して敵中に突出した」というのは、歩九第一大隊のことですので、直接関係ないのではないかと思います。まぁ、戦闘は続行していましたよ、いぶり出された敵を掃蕩していた時ではありませんよ、ということは分かりますけど。それに続いて、「十一日、左翼隊右正面では、歩九第一大体主力が「桂林石屋」を南下して右第一線、第三大隊が霊谷寺北側から進んで左第一線となり攻撃を行ったが戦況は進展しなかった。」とあります。第三大隊の攻撃は行われていますので、東中野さんが『南京「百人斬り競争」の真実』で使用した『大野日記』によると、10日金曜日に第三大隊が連隊の左第一線となったことがわかります。「霊谷寺より記念塔へ至り、山腹に出る。迫撃砲にて盛んに射撃を受く。後、中隊は大隊の左第一線となり、南方の稜線に至る。一夜中壕中にて、益々敵の射撃猛烈なり」とありますので『南京戦史』の記述ともあっています。佐藤さんは、10日に無電の連中 (無電技師の安田さんだと思います)と連絡がとれて、11日に中山文化会館に到着したと日記に書いていて、二人の少尉の写真を撮影することが物理的に可能だったのに常州で撮影した写真を使っているのでおかしいというのが東中野さんのアプローチです。いいところを衝いていると思いますが、現像に出すので間に合わなかったかもしれないし、映りが悪かったかもしれないし、鈴木さんが両少尉に会っておらず、第四報が創作であったかもしれないというは指摘できていますが、創作であったことを証明しきってはいません。第二報と第三報の「創作性」が高いというのはわかりますけど。

鈴木二郎記者は、1972年の『週刊新潮』の記事で「抵抗もだんだん弱まって・・いぶり出された敵を掃蕩していた時ですよ、二人の少尉に会ったのは」との述べた。『南京戦史』、『大野日記』、『(福知山第二十連隊)第四中隊陣中日誌』などによれば、附近では激戦が継続していた。

あたりに変更してはいかがかなぁと思います。

4.『「百人斬り訴訟」裁判記録集』百人斬り訴訟を支援する会、2007年、42~43頁。

「その後、鈴木は雑誌分載の主張をまとめた「南京大虐殺のまぼろし」を出版し、大宅賞を受賞」、「当時の著名著述家の反応」、臼井吉見「特派員の署名記事で、銃後の話題を賑わそうとの特ダネゲームの与太・・・ものにちがいない」というところですが、臼井は「。。。にちがいない」と断定したとは書かれていません。

第四回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたときの選考委員のうち、臼井吉見は「特派員の署名記事で、銃後の話題を賑わそうとの特ダネゲームの与太ばなしであったことを改名していく」と評し、、、、

という具合にかえてはいかがでしょうか?それと臼井吉見のことは42頁ではなく43頁に書かれています。

その2、その3と検証を続ける予定ですが、本日のところは、この辺りでお休みさせてください。Takabeg会話2015年12月13日 (日) 13:25 (UTC)返信


検証を読んで

*「記事に書いた鈴木二郎記者は、とありのはおかしいのでは」鈴木記者が書いたのは、日日新聞の第四報記事。署名入り。尋問調書でも、浅海記者が主に書いたが、鈴木が加わったと述べている。

*「現像に出すので間に合わなかったかもしれないし、映りが悪かったかもしれないし」佐藤振壽の手記では、紫金山麓で2度目の写真を撮った記憶はないようだ。

*「証明しきってはいません」私もそう主張していない。写真の件の他に、記事中の「紫金山を見下ろす」、鈴木証言の戦史との食い違い、浅海証言の鈴木証言との食い違い等(後ほど)を読者に情報提供している。

*「。。。にちがいない」は臼井でなく小田実。、開高健も・・・に含めた。---総持庄一会話2015年12月15日 (火) 06:02 (UTC)返信

総持庄一氏の編集について(志々目日記など)

志々目彰の回想記について

回想記の内容についての評価が1つもない。挙げられている出典も南京事件や東京裁判、回想記の著者について記述したものであり、回想記の内容には触れていない"無効出典"である(『百人斬り競争 日中戦争の追憶』志々目彰(月刊『中国』1971年)による記述のみ、"肯定側の主張"節へ移動した)。文脈からしても、総持庄一氏が個人的に持った疑問にしか読み取れないため、除去した(WP:NOR)。

非百科事典的な文章

「だからどうというので無く」、「・・・とは望月回想記の一節」、「電話取材した稲田朋美に望月の親族は言った」、「朝日新聞と裁判所はちがった」などの表現は百科事典にはそぐわない(WP:NOT)。

佐藤振寿氏が百人斬り訴訟で原告側唯一の証人だった件について

"名誉棄損裁判"節へ移動している。訴訟に関連する記述は同節で触れたほうが良い。

御自身の疑問や感情を記事本文に反映することは出来ない。また、主語の無い文章や非百科事典的表現は可読性を著しく損ねる。--花蝶風月雪月花警部会話2015年12月15日 (火) 14:41 (UTC)返信


花蝶風月氏のやりたい放題は目に余る。独善な理由づけをして削除のし放題、こんな事が許されたら百科事典の内容の公平を保てない。wiki管理者へ花蝶風月をなんとかしてくれ。---総持庄一会話2015年12月16日 (水) 03:52 (UTC)返信

検証その2

5.板倉由明『本当はこうだった南京事件』、1999年、219~220頁

"ラーベ日記と南京の「新事実」"のなかに"「掠奪」考"という項目にありますが、「中支では、たとえ老婆といえども情報を探って通報する恐れのある存在であった。女性が赤ん坊を装って手榴弾を運んだり、ゲリラを手引きして日本軍陣地に誘導したり、まして壮年男子は突然隠した武器でテロを行う危険があった。上海で日本軍歓迎の旗を振る婦人の列の陰から便衣隊が一斉射撃をしたのはその一例である。殺さねば殺される、怪しければ殺せ。かくて、中支では非戦闘員の殺戮が常態のようになったのである。」とあります。「"民衆に対する殺害”に、次ぎの留意はあっていいだろう」「民衆に対する殺害”に、次ぎの留意はあっていいだろう」という部分は、ソースが無いことと、検証可能性が確保されていないことから記載すべきではないですし、言葉を濁さないに従って、「板倉由明は○○○と主張している」という形にするのがよいと思います。

6. 鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』、1973年、155~156頁。

  • この部隊が上陸の際に、ちょっとしたエピソードが伝えられている。第三師団の先発梯団が本船から呉淞桟橋に上陸しようとしたとき、日本の愛国婦人会のような格好をした多数の女性が、手に手に日の丸の小旗を持って迎えたというのである。兵士たちは安心して、次々に桟橋に降り立ったが、それまで並んでいた女性たちの姿はたちまちにして消え、次に展開されたのは、中国軍による凄まじい一斉射撃であった。不意を衝かれた日本軍の死体は、見る見るうちに山と築かれていった。指揮官の顔は一瞬士気色に変り、口惜しさに唇は噛みしめられて、血をにじませていた。
  • このことは、日本軍の胸に、中国軍に対する根強い不信の念となって刻みこまれることになった。俗にいえば「畜生、やりやがったな」という感情である。このエピソードは後の部隊にも「教訓」として語り継がれ、長く憎悪の対象となったようである。

とありますが、「否定側の主張」なのでしょうか?

「たとえ子供といえども、一刻も油断はできないということであった。庭で食事をしていただけで狙い撃ちにされたというような例はいくらでもある」と向井・野田両少尉との関係はどういったものなのでしょうか?「百人斬り」ではなくて「南京事件」に関連した部分のはずですが。。。

7.鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』、1973年、224頁。

「一度自分がやられそうになった時、相手をやらなければ自分がやられるのだな、ということをしみじみ痛感させられた」というのは、向井・野田両少尉とどういった関係があるのですか?これは、朝日新聞カメラマンの証言で、「百人斬り」ではなくて「南京事件」に関連したものですよね。

8. 立作太郎『戦時国際法論』、1938年、44頁。

「私人は敵國の直接の敵對行爲に依る加害を受けざると同時に、自己も亦敵國軍に對して直接の敵對行爲を行ふを得ざるを以て、敵對行爲を行うて捕へらるれば、敵軍は、自己の安全の必要上より、之を戰時重罪人として處罰し得べきである。」は、「否定側の主張」なのですか?

9. 鈴木明『南京大虐殺のまぼろし』、1973年、74頁。

「向井少尉が昭和15、16年頃、母校の京城の公立商業学校を訪れた際、「校長から『生徒達に是非百人斬りの話を』とすすめられたが、何故か固辞して語らなかった。」というのは、否定する説と何の関係があるのかわかりません。普通のエピソードとして入れておけばいいのでは?

10. 稲田朋美『百人斬りから南京へ』 2007年、150頁。 稲田さんの本では、宮村喜代治ではなくAさんとなっています。同書にある原告側提出書証の114番目にある陳述書ですよね?宮村喜代治と実名表記するためには、稲田さんの本に加えて『南京大虐殺と「百人斬り競争」の全貌』の158頁なども併せてソースとして提示する必要があります。

「報道陣は第一線までは来ず、突撃演習が実戦として放映されたことがあるが悪い気はしなかった」という部分は厳密にいうとWP:SYNTHESISに抵触します。

  • Aさんはその話を聞いて「ありえる」と信じた。なぜなら、Aさんは突撃演習をしているところを撮影され、それが実戦の場面としてニュース映画で放映された経験があったからだ。それでも自分が勇敢に突撃しているところニュース映画として内地で放映されれば悪い気はしない。ただそれはまったくのうそのニュースである。新聞記者も従軍していたが、第一線までは来ず、いつも記事がなくて困っていたので、冗談話を新聞記事にすることは十分考えられるという。向井中隊長が「百人斬りは冗談話だった」と話したことは他の下士官も聞いていた。

というのを上手にまとめるのがよろしいかと思います。

11. 稲田朋美『百人斬りから南京へ』、2007年、153~154頁。

  • 向井小隊長が百人斬りを記者に話したということは、その当時聞いたことがあります。話を聞いた時、刀で百人など斬れないので何を言っているのかと思いましてね。それでよく覚えています。まわりの兵隊達もその話は知っていました。しかし誰も信用していません。
  • 小隊長は砲撃を我々分隊長に任せて、全体を見ていて、無錫から南京にいくまでほとんど私の側にいました。この間、小隊長が刀を抜いたのを一度も見ていません。百人斬るとか何とかの前に、我々の周りに中国兵などいません。中国兵がいないのですから、斬るも斬らないもありません。

となっています。

12. 東中野修道 『南京百人斬り競争の真実』2007年、91、120頁。

  • 両少尉は「丹陽」にも「句容」にも入城していなかった。それにもかかわらず記者たちは「丹陽」と「句容」に入城したあと、あたかも両少尉に会って取材したかのように、「丹陽にて三日発」の第二報と「句容にて五日発」の第三報を書いて日本へ打電し、東京日日新聞と大阪毎日新聞に掲載したのである。
  • 記者たちが両少尉に会うことなく記事が書けたということは、創作以外のなにものでもない。まさに本書二五~二九頁の野田少尉の第二上訴申弁書にあるように、《記事は一切、記者に任せて下さい》と記されていたとおりであった。だからこそ、記者たちは両少尉に会って話を聞くこともなく、自由に第二報と第三報を創作できたのである。91頁
  • 十一月二十九日発の第一報は、たしかにそのとき写真を撮影していたから、それが本書四一~四二頁で述べたように、両者が合っていたことを裏付ける物証となっていた。しかし十二月十二日發の第四報には、そのとき会って撮られたかのように掲載された十一月二十九 (または三十日)撮影の写真が掲載されたため、逆に、両者が出会っていなかったことを裏付けていた。記者は、「時百人斬り」突破の記念撮影をおこないたくとも、三者が出会っていなかったから撮影できず、十一月二十九日 (または三十日)撮影の写真を使わざるを得なかったのである。120頁

とあります。第二・第三報については東中野さんだけでなくても気がつきそうなところです。しかし、「写真撮影がなかったために第四報は創作である」というのは、第四報は紫金山で書かれたことになっているにもかからわず、写真は以前に常州で撮影されたものを使った写真を使ったのは事実ですが、「会っていたら両少尉の写真撮影を必ずや頼んでいたであろう」という点は東中野さんの推測ですので、そこを明らかにしておく必要があり、断定的な表現にするべきではありません。

13. 『南京百人斬り競争と南京事件』2008年、205頁。原告側準備書面(2004年8月10日)

『南京百人斬り競争と南京事件』の204~205頁は、2006年6月30日付の江蘇法徳永衡律師事務所 (中国・南京市) 談臻 (弁護士)による「〈資料〉夏訴訟・保佐人意見陳述」に割かれていますので、ページ番号の記載ミスではないでしょうか?

14. 『「百人斬り訴訟」裁判記録集』2007年、152頁。

「浅海記者はその後も丹陽にとどまり、12月10日鈴木記者と合流したことが戦後の東京裁判尋問調書で知られる」というところは、

「鈴木二郎は、昭和21年6月15日のパーキンソン検事による尋問を受けた際、「12月10日に丹陽で (浅海と)合流して、12月13日に中山門から南京に入りました」と回答した」

というふうに具体的に書いた方がいいでしょう。

15. 『「百人斬り訴訟」裁判記録集』2007年、70頁。

「この点からも「12月5日の句容(丹陽の先)での記事は虚偽である」というのは、原告弁護団の意見ですので、その旨 (主語)を書く必要があります。関連部分を示しておきますと、

  • 浅海記者と鈴木記者は12月10日に丹陽で合流したというのだが、甲八二の地図から明らかなように丹陽は句容の手前であり、12付10日に丹陽に浅海記者がいたということは12月5日の句容での記事 (本件第一報)は虚偽である。と同時に12月10日に二人が取材した第四報も二人の創作と考えるのが自然である。第三報が虚偽であることは、冨山大隊が句容の手前で北上、5日は賣崗里で宿泊していること、同じ12月5日に浅海記者が丹陽で記事を書いていること (甲六の一)から明らかである。
  • この点について被告朝日新聞社は、第三報については記事の場所と日付は正確でないと主張し、第四報については12月11日に紫金山山麓で取材したもので矛盾しないと主張する。
  • しかし少なくとも12月10日まで浅海記者が丹陽にいたことは丁一から明らかであり、句容で両少尉を取材した五日の記事 (十二月六日東京日日新聞に掲載)は創作である。

16. 『「百人斬り訴訟」裁判記録集』2007年、154頁。

  • ソースにはそう記述されています。

17. 光本さんのことですが、「記事を書いたのは光本記者との見方も一部にあった」というのは、鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』 (初出は『諸君!』1972年4月号、179~180頁)には、《「諸君!」編集部のたしかめたところによると》とありますので、そうであれば主語を明確にする必要があります。また、光本さんの所属ですが、「日日新聞京都支局」ではなく「大阪毎日新聞京都支局」では?

  • この記事には「浅海光本両特派員発」というクレジットがついている。この浅海とは、あるいは、毎日新聞の大記者として著名であり、また新中国の理解者として昨年『新中国入門』を書いた浅海一男氏のことではないだろうか?「諸君!」編集部のたしかめたところによると、このクレジットにある「浅海」とは、まさに浅海一男氏のことなのだが、実際これを取材したのは光本氏の方であり、しかも光本氏はすでに死亡しているとのことで、この件についてのこれ以上のことをたしかめる余裕はなかった。

となっています。Takabeg会話2015年12月21日 (月) 10:23 (UTC)返信

検証その3

18『「百人斬り訴訟」裁判記録集』2007年、67、229頁

  • 被告毎日新聞社は昭和六十三年において「この記事は当時、前線勇士の武勇伝として華々しく報道され、戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された。ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった」と自ら認めたのであり (甲四六)、虚報と認めている本件記事を放置していることは違法である。
  • 被告毎日新聞社は、丁二六の解釈として浅海、鈴木記者が一貫して「創作ではない」と述べていたことを強調するが、無錫郊外 (常州)での冗談話をもとに無錫から紫金山までの記事を書いたことが「創作」であることに変わりはない。
  • 新聞記者が目撃も検証もせずに、真実でないことを報道することを「創作記事」というのである。

以上が原告側の最終準備書面であることを明記する必要がある。また、229頁にあるのは、控訴理由書ですので、その旨を明記する必要がある。

  • ①本件日日記事が事実でないことを訂正することはきわめて簡単である。
  • ②毎日新聞社自身、毎日新聞社が、平成元年三月五日発行の『昭和史全記録』 (甲四六)の中で、百人斬りに触れ、「この記録は当時、前線勇士の武勇伝として華々しく報道され、戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された。ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった」 と書いている。
  • ③本件訴訟の原審において、上記は著者 (誰かは不明である)の個人的見解であるなどと稚拙な弁解を展開しているが、いったん否定した事実を改めて、毎日新聞社としては、本件日日記事は、記事の記載内容のとおりの事実であると述べた。この時点で、改めて事実摘示がなされたことになるのであるから、原審の論法に拠ったとしても除斥期間は経過していないというべきである。
  • ④毎日新聞社は、第四報に掲載された両少尉の写真が、現在でも各種の記録や展示に掲載ないし展示されているのに、それを放置している。
  • ⑤原審の論法では、先行行為の除斥期間が経過した後の行為は放任されることになるが、増刷、改訂、あるいは出版替えといった新たな行為の伴うものまで不問に付されるという結果は明らかに不当である。
  • 以上の事情から、本件には除斥期間の適用をすべきではない。

これに関連して質問しておきます:畠奈津子+大舘亞津子『マンガで読む昭和史「南京大虐殺」の真実』の191頁には「毎日新聞社はこの年鑑を編集した「カメラ毎日」の元編集長西井一夫氏 (故人)に罪をかぶせて逃げたのだ」「毎日新聞が発行した年鑑でありながら責任を編集者一人に押しつけるとは何事であろうか」「毎日新聞は浅海記者の記事も「昭和史全記録」の記載についても「毎日新聞には責任はない」の一点張りである」「こんな新聞社がなぜ今も併記で権力を振り回し続けていられるのだ!」とありますが、西井一夫さんに罪をかぶせたというのは事実なのでしょうか?

19 佐藤振壽「陳述書」『「百人斬り訴訟」裁判記録集』百人斬り訴訟を支援する会、2007年、99頁。

陳述書には著作権はありませんので、wikisourceに全文掲載してもいいのではないかと思います。

20 稲田朋美『百人斬り裁判から南京へ』、2007年、170頁。

  • 平成一七年五月一八日
  • 今となっては何のために裁判所が公開の法廷を開くのを嫌がったのか、それが疑問である。
  • 佐藤振壽証人が現れ、「百人斬りは一〇〇パーセント信じていない」と証言したことの衝撃が大きかったのか、裁判所はその後一人の証人も採用しなかった。
  • 何度となく、証人を調べてほしいと申し入れ、上申書も提出した。しかし裁判所はこれ以上証人を調べなくとも判断ができるという一点張りだった。
  • そのかたくなな態度をよい方向に解釈していた。ここまで私たちが要求する証人を調べないということは私たちの主張を認めるつもりなんだと。
  • とうとう一審の最終弁論期日を迎えた。三人の遺族もそれぞれ一番の最後に臨んで、意見陳述をした。私も一審裁判のしめくくりの意味で意見陳述を行った。以下のとおりである。

とあります。

21 「証人調書」東京地裁 2004年、21頁。

21頁となっていますが、これはどの書籍に掲載されているものですか?

22 148頁以下,219頁以下『南京大虐殺のまぼろし』1973年 『聞き書き南京事件』1987年 「雑誌新聞などの事前検閲も行」われたので、それが媒体に載るのは何十年後だが。戦後「大虐殺」を言い出した2,3の記者にも批判は多い(215,221頁 鈴木明 173頁 板倉由明 他)。

「南京戦を間近に見た多くの従軍記者が大量殺害に否定的な見方を抱くなか」という部分をここにもってくるのは独自研究になります。なぜなら、志々目さん本人によれば、「日中戦争の追憶 "百人斬り競争"」を書いた背景・動機となったのは、『丸』11月号「日中戦争の全貌」という特集のなかにあった当時毎日新聞社会部報道班員鈴木二郎氏の「私はあの"南京の悲劇"を目撃した」ことだからです。

23 「百人斬り競争 日中戦争の追憶」志々目彰(月刊『中国』1971年),141頁『南京百人斬り競争と南京事件』2008年

  • そして敗戦。変り身のはやくない私は、二・一ストのあとまで、依然として軍国主義者だった。そのころ極東裁判が開かれた。マスコミと世論が旧軍隊の、ことに戦争遂行の骨幹であった正規将校の腐敗をあばく度にくやしがっていた私だったが、南京虐殺事件の報道はすなおに受け入れることができた。N少尉の話の全体像がつかめてきたように思い、自身もにない手であった日本帝国主義の対外的な責任を考えるようになったのは、この頃からであった。
  • しばらくすると地方新聞で、N少尉らは南京で戦犯として銃殺されたというきっじが報ぜられた。ああ、そうだろうな、当たり前だな。これで一つ決着がついたなと思い、それ以上は考えなかった。

とあります。

24 藤原正彦『日本人の誇り』、2011年、101頁。

当該記述は101頁ではなく99~100頁にあります。ただし、志々目さんの証言とは直接関係がありませんので、除去が適切です。どこかで生かしたいのならば、極東国際軍事裁判に転記するのがいいかもしれません。藤原正彦さんは立派な方だとは思いますけど、本職は数学者ですし、『日本人の誇り』は軍事裁判に関する専門書ではありませんので、同様の記述のある極東国際軍事裁判を扱った専門書から引用したほうが有益ではあります。

25 南京・東京裁判判決と根拠

志々目さんの証言とは直接関係がないので、除去が適切です。

26 百人斬り訴訟を支援する会『「百人斬り訴訟」裁判記録集』、2007年、54頁。

「志々目彰は、氏の大阪陸軍幼年学校会報の寄稿文によると、終戦後共産党員になり党員として活動しているときに傷害罪で実刑を受け、その後共産党を離党し、30年間児童文学に携わった人である」は本文ではなく脚注に入れるのが適切ですが、志々目彰さんの人生をうまくまとめているとは言えないので、加筆を考えています。著書も少なくとも二冊あって独立した二次資料で志々目さんに関する有意な言及も決して少なくないので、もしかするとWikipedia:特筆性 (人物)にぎりぎりひっかかるかもしれません。志々目彰単独立項も視野に入れ、立項の際は上記の箇所も脚注から除去してもいいでしょう。

27 稲田朋美『百人斬りから南京へ』、2007年、133頁。

望月さんの『私の支那事変』は確かに問題がありますよね。「敵前立哨中の居眠りは銃殺」、「戦車が城門めがけて激突破した、城門がギイイと音をたててくずれた」、「常州へと進撃する行軍中の丹陽付近で大休止」なども追加するとよいと思います。「今ここで、はっきりと、間違いだらけの恣意的な本だというレッテルを貼りつけなければ、とても後世に残せない本です」という阿羅健一さんの結論も書いておくべきです (134頁)。

Takabeg会話2015年12月22日 (火) 12:01 (UTC)返信


検証を読んで----------------12・23----------------------------

5.「次ぎの留意はあっていいだろう」→変更した

「板倉由明は○○○と主張しているという形にするのがよい」→板倉は主張していない。「こういう事があった」と述べている。事実を述べる時に論争があり確定していなければ、「主張している」が適切な場合もあるだろう。だがこれは確定事実を述べている。ウソを書けば各方面から突っ込みが入り、訂正されるが、これは数十年間そうなっていない。同じことは鈴木明も言っている。なぜ論争もない歴史事実を述べる時にわざわざ、「主張している」を入れるのか?

6.7.8.「否定側の主張なのでしょうか」「百人斬りではなくて」「向井・野田両少尉とどういった関係があるのですか」「立作・・・否定側の主張なのですか?」→これは肯定論「南京攻略戦においては、捕虜や一般民衆に対する殺害はごくありふれた現象だった」に反論したもの。肯定論が向井・野田に関係なく「南京攻略戦において」と言っているのだから、こちらも南京戦の事を言ったまで。南京戦に於いて、便意兵、ゲリラの定義と扱いは重要な関心事。

9.「否定する説と何の関係があるのかわかりません」→こちらの方が分かりません。野田は何度か百人斬り講演を行ったことが重要な証拠とされている。その重要な証拠が、向井についてはありませんよ、と否定している。裁判所は向井が殺害したことを立証せずに、両人による”殺人競争”が行われたと判決している。私は向井は殺人競争をしていませんよ、と否定論を展開した。

10.出典に『「百人斬り訴訟」裁判記録集』の183頁が抜けた。この文は両方から採っている。出典は訂正する。 「上手にまとめるのがよろしい」→原文「新聞記者も従軍していたが、第一線までは来ず」「突撃演習」「実戦の場面として」「放映されれば悪い気はしない」。私の文「報道陣は第一線までは来ず、突撃演習が実戦として放映されたことがあるが悪い気はしなかった、とも語っている」これがなぜいけないのか?

12.「撮影を必ずや頼んでいたであろうという点は東中野さんの推測」→佐藤がいなくて撮影出来なかったことも考えられるが、それならわざわざ写真に細工してまで載せる必要はなかった。写真は記事に信ぴょう性を持たせるために使われた。「断定的な表現にするべきではありません」→肯定側にも望月云々。これは否定側の主張であり、断定的になっても問題があるとは思えないが。

13.「記載ミスではないでしょうか」→205頁の(注)の(12)に書いてある。

14.「具体的に書いた方がいいでしょう」→考えてみるが、書き換えは一切許されないのか?資料の文言だけでは、意を尽くせない場合だってある。

15.「その旨 (主語)を書く必要があります」→そのように書くことにする。

17.光本云々。→「光本は『大阪毎日新聞』の特派員で、京都支局から派遣され、郷土部隊の第16師団について記事を書いていた」(99頁『「百人斬り競争」と南京事件』笠原十九司)。事実を書く時にもいちいち、笠原が言っているなどと書くのか?「日日新聞京都支局」ではなく「大阪毎日新聞京都支局」はその通り。

「実際これを取材したのは光本氏の方」とは、第何報の事で、誰が言っているのか?。それを示してほしい。5日の記事は「私がこの記事の執筆者です」と浅海は答えている。これ以上の確証はないだろう。鈴木とは共同執筆だと言っているが、こちらは言っていない。

18.「最終準備書面であることを明記する必要」→毎日新聞が訴訟とは関係なく『昭和史全記録』の中で言っている(229頁『「百人斬り訴訟」裁判記録集』)ことを、なぜ準備書面が言っているなどと書く必要があるのかサッパリ分からない? 「西井一夫さんに罪をかぶせたというのは事実なのでしょうか」→毎日新聞は、訴訟で『昭和史全記録』は社としての公式見解ではない、とかなんとか言っている。「裁判記録集」のある。

19.「全文掲載しても」→ちょっと見2,500字以上あるが。

21.本多の本だったような?。だいぶ後ろの方。

22.24.25.「鈴木の『私はあの"南京の悲劇"を目撃した』」が動機であったこと確か。それはきっかけであり、「南京虐殺事件の報道はすなおに受け入れることができた」思想形成は、戦後の極東裁判の頃。その極東裁判に納得できなかったのが従軍記者。同じ報道を聞き、同じ時期に感得しているにもかかわらず、思想形成が反対になったのは、一方は実体験に元づいたから、志々目のほうは報道によったから。その報道は検閲されていたし、裁判は藤原正彦の言っているようだった。出典は細かに提示してある。なぜ「独自研究」なのか?「直接関係がありませんので、除去が適切」→「ウィキペディアは紙製の百科事典ではありません。・・注意事項を除き、取り扱うことのできる項目数や内容の総量に実質上の限界はありません」と寛大だが。

26.「脚注に入れるのが適切」の判断の根拠はどこ?「志々目彰単独立項も視野」それもあり得よう。

世の論述では、思想信条から過去の行動履歴等、事柄を理解するうえでポイントとなる事項は網羅される。wikiでもそう。それなのに、「これは書くな」とか言っている。こういうのを検閲というのだろう。権力者は検閲によって、都合の悪い情報を国民に知らせないようにするが、あなたの目指すところは何か?------------------総持庄一会話2015年12月23日 (水) 06:50 (UTC)返信

たぬき氏の自分勝手な削除について

wiki管理者へ

たぬき氏は何箇月か前の版に戻し、その間の史実の全てを削除している。氏は何者?こんな事が許されていいのか。早急に直近の版に戻し、た氏をなんとかしてほしい。---総持庄一会話2016年1月20日 (水) 04:24 (UTC)返信

総持庄一さん、ウィキペディアでは、ウィキペディアでは検閲は行われません。「都合の悪い情報」って例えばどれですか? 「百人斬り」と関連して書かれていない文章をこの記事に書き連ねるのは、Wikipedia:独自研究は載せないに抵触するので、そうしたものは除去されるべきであると言っているだけです。総持庄一さんが「それは関係がある」と思ってもだめなんです。二次資料を書いた人 (研究者とか評論家とか)が「百人斬り」とからめて書いていないとだめなんです。私も利用者:たんたたたぬきさんによる大量除去は議論を経たわけでもなく非常に乱暴であって (ただし、直近の版ではなくて2015年12月18日の版に戻しています) 不適切と考えますが、上のほうにあるコメントを読む限り、同氏も総持庄一さんの編集の中にWikipedia:独自研究は載せないに抵触したものが多いと考えているのだと思いますよ。資料において「百人斬り」と関連させて書かれていない部分の引用・記述を、ご自身で除去してみてください。総持庄一さんに熱意があることはわかりますので、Wikipedia:腕ずくで解決しようとしない#いつまでも「納得」しないとかWikipedia:妨害的編集#いつまでも納得しないも読んで、ウィキペディアのガイドラインや方針に従った意見や指摘があれば、受け入れるべきところは受け入れながら編集してください。それと、Wikipedia:個人攻撃はしないWikipedia:礼儀を忘れないを繰り返し読んでください。それでは (「wiki管理者」でも「たぬき氏」でもありませんが、そろそろわかってほしいと思って返答させていただきました)。Takabeg会話2016年1月20日 (水) 11:39 (UTC)返信

---

  • 「研究者とか評論家とか)が「百人斬り」とからめて書いていないとだめなんです」→これを具体的に述べているwiki規定を提示してほしい。その線に沿う気はある。
  • 「非常に乱暴であって」→そんなレベルではない。事実で反論せず、気に食わない記述を削除するなど、言論に対する侵害行為だ。

---総持庄一会話2016年1月27日 (水) 06:00 (UTC)返信

---追

  • 「都合の悪い情報って例えばどれですか? 」→「すなわちは日本刀の優秀性を謳う個所」これをさらに4項目書いてある。この個所は秦郁彦『百人斬り事件の虚と実』から採っている。
  • 志々目が共産党員で逮捕歴がある件。これが関係がないから削除を要求しているらしい。恐らくこれが不都合な真実なのだろう。以下、無関係ではない理由。冷戦当時アメリカに於けるソ連のスパイは共産主義者が多かった。イデオロギーは祖国をも売る。もっと分かり易い例は共産主義者尾崎秀実。祖国日本がどうなろうと、情報提供で日本人が何万人死のうと、共産主義国家・ソ連の為なら、国をも売って平気。拉致被害が頻発した頃、新潟の海岸近くでは労組活動家が北朝鮮の金親子に忠誠を誓い、拉致の手引きをしたのではないかという疑いを、舘雅子は深く抱いている。イデオロギーとはそういうもの。だから人を語る場合、思想信条があれこれ詮索される。志々目が1972年告発手記を書いた当時すでに、中国は共産主義国家だった。
  • 逮捕歴がある件。これは目的のためなら手段を択ばない人間のやる典型例。
  • 例えばある学者が何処其処にこう書いてある、と言ったとする。調べてみると、そんなことは書かれていない。wikiで書かれていないと指摘する。これは事実の指摘であり、学問的素養が無くても誰にでもできる。だから研究と呼べるものものではない。「自ら」「話した」という笠原の説はこれに近い。これを自己研究だというなら、そのwiki規定を示してほしい。
  • 例えばある学者が、誰それは何も書いていない、と言ったとする。調べてみると、50%は書かれている。wikiでこう書かれていると指摘する。以下同じ。これは秦郁彦の場合。
  • 志々目の場合は、研究者が研究した結果、銃殺は極東裁判当時まったく知られていなかった。よってそれを基に志々目が考えたことは、極東裁判当時ではないことは誰にでも言える。学問的素養が無くても。これは志々目回想記全体の信用性に関わってくる。少尉が「ニー・ライライ」と言ったと、志々目は述べているが、これは後知恵ではないのかという懸念も浮かぶ。志々目の同級生で、中国語の一字一句まで覚えているものは居ない。従って無関係では決してない。---総持庄一会話2016年1月28日 (木) 03:42 (UTC)返信
  コメント
> ―これを自己研究だというなら、そのwiki規定を示してほしい。
Wikipedia:独自研究は載せないおよびWikipedia:ウィキペディアは何ではないか#ウィキペディアは独自の考えを発表する場ではありません
方針は順守するように。--花蝶風月雪月花警部会話2016年1月28日 (木) 04:32 (UTC)返信

自分に都合の悪い事実を削除しまくるあなたに言われたくない。「方針は順守するように」はそっくりそのまま、あなたに返す。なお、私は「未発表の分析やまとめ、解釈など」していない。 ---総持庄一会話2016年1月28日 (木) 05:04 (UTC)返信

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