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海軍兵学校の教師
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2011年3月28日 (月) 00:02時点における版

粟津高明(あわつたかあき、1838年-1880年)は明治時代のプロテスタントの教会指導者である。「布教」に代って「伝道」という言葉を造った人物。日本基督教団霊南坂教会の元になる日本教会を設立した。

経歴

江州の膳所藩の武士として生まれる。幕末に膳所藩の藩論が開明派の攘夷論になると、脱藩する。1868年(慶応4年)4月にジェームス・バラから洗礼を受ける。中江藤樹の宗教理念を変えることはなかった。

入信に2年後の1871年(明治4年)には、バラに疎んじられ、バラの日本語礼拝に出席するだけの信徒になる。その1872年(明治5年)、篠崎桂之助が入信すると、粟津の同志になる。

1870年より、海軍兵学寮に出仕する。1874年(明治7年)に海軍兵学寮の新寮掛になると幼年生徒を集めて、キリスト教の講話を日曜ごとに行う。その後、兵学校教官として、渡米する。アメリカの人種差別を見て西洋嫌いになる。海軍兵学校の教頭になる。

1876年4月7日に教会の長老候補者に、日本基督公会横浜海岸教会)と東京基督公会(新栄教会)が公会主義を無視しているとの非難の文書を送る。1876年年に自宅に自費で、石造りの会堂を建てて、新栄教会に通いながら集会を始める。会堂を建てる時に、宣教師たちが、腰掛や椅子やテーブル、敷物、オルガンなどを贈られると、粟津はそれを丁重に断り、西洋色のない日本独自の教会を目指す。1880年に病死する。遺言で「外国に関係のない教会を樹立せよ」と言った。粟津の2年後、アメリカン・ボードの教会と合併して、日本組合教会に所属する。今日の、日本基督教団霊南坂教会になる。

参考文献

  • 有賀寿『衣替えするキリスト教』すぐ書房、2000年